NANA★LAND

ぐだぐだ日記としか、、、

5月13日(日)映画:EVA~エヴァ~AIを人間に似せる必要

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(今回の酷評(笑)映画はこちら。うそうそ、泣かされました)

(2011スペイン制作 子ども型アンドロイドのお話です)

 

 主人公はこれからどうするんだろう。

 時々、映画を観たあとに感じるこの種の疑問は、そのエンディングがバッドであることが多い。

 いや、ホラーではなくて今回の映画は子供型AIが登場するヒューマンドラマ系だったのだが、そのラストははっきり言えば、「ん?」という感じだった。

 私は映画ではカンフーパンダの冒頭で師匠との別離のシーンで大泣きしてしまうくらい感情移入度が高いので(師弟愛萌えなだけじゃ・・・笑)、できるだけ「感動」のタグ入りの映画には手を出さないようにしている。

 だって、泣くと疲れちゃうからね。

 

 

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 (AIの心臓部を制作中の天才ロボット工学者役のダニエル・ブリューリュ)

(いろんな映画でみかけますが、見ているうちにすっごい好きになる庶民的美男)

 

 

 なので、この映画のラストで「お、このシーンで観客を泣かすつもりだな? だけど、泣けないぞ。

 脚本として失敗してないか?」などと、

 上目線で映画のデキにいちゃもんをつけながら、ワインをすすってたのだが、

 そのシーンこそ主人公が親子同然の間柄になったエヴァという姪っ子がアンドロイドであることがわかり、なおかつ攻撃的欠陥のために、

 再起動という名の「リセット」をしなくてはいけない、主人公断腸のシーンであり、いわば、「お涙ちょうだい」のクライマックスだ。

 

 再起動をすれば、今までの「メモリ」たる記憶はアンドロイドから失われ、初期化され、つまり姪っ子は死を迎える。

 

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(主人公と少女は当初、叔父と姪っ子の関係ですが、どんどん親子っぽくなっていきます)

 

 なので、くどいようだが、ここで「泣けなければ」この映画は「失敗」なのだ。

 で、私は失敗した映画をみると、実はほっとする。

「ああ、泣かされなくてよかった」

 というのもあるが、内心は複雑だ。

 複雑さに理由のひとつは、映画分析症候群からくる、赤ペン先生の気持ちであり、「プロでもこの程度の脚本で映像化までこぎつけることができるのか」という安堵と失望の入り混じった心情であり、

 もうひとつは個人的に「泣く」と、切なくて寂しくなっちゃうからだ。

 泣くとすっきりするという人もいるが、私はなんだか、泣くと疲れてしまう。泣いても肩を抱いてくれる恋人がいるわけではないし、せいぜい息子である猫たちの背中に鼻水と涙をぐしょぐしょにつけて、息子たちにいやがられるだけだからだ。

 

 

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(近づくな~wwの図)

 

 

 そういうわけで、この映画のクライマックスで、「この程度か。ほっとするぜ」

 と思いながら、ある意味で泣かされなかった脚本の「失敗」についてあれこれ分析をしはじめたところ、なんと映画はまだ終わらなかった

 

 

 再起動をかけて画面が暗澹したあと、つづきがあったのだ。

 

 

 記憶というかメモリが消えていくエヴァの脳裏に、いままでの記憶がひとつひとつ蘇る。そして、それが一つずつ消去されていった先、すべてが消えると思ったその先に、消えないシーンが残った。

それは、母親と主人公と彼女自身が海岸の波打ち際で本物の親子のように戯れているシーンだ。

 これは、実現しなかったエヴァの希望であり、同時に、主人公、そして物語中で死亡した主人公の恋人であるラナの共通の夢だった。

 三人はロボット製作者とそのアンドロイドという関係だったが、これは親子の関係ともいえる。

 このシーンで、私はワインの入ったグラスを落として(割れずに済んだが、ラグにシミが落ちない血糊が残ることに)、涙腺が崩壊した。

 

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エヴァの神経回路:人間でいうシナプス的な回路を視覚的に表現するためにこんなアメーバのような水滴を多用しているシーン。これが幻想的かつ有機的で映像としては素敵です)

 

 

 実現しなかった、親子関係。

 

 なんというか、演出家の勝利である。

 もう、涙腺崩壊である。

 言い訳をしたいが、この涙は断じて脚本家の勝利ではない。

 演出家の勝利である。

 私は鼻をぐずぐずさせながら、嗚咽をもらし、

「卑怯だ。そういうラストは卑怯だ!!!」

 と連呼しながらティッシュに手をのばした。

 

 そういうことがあったのだが、とはいえこの映画はやはり様々な疑問を放置したまま終わっているという点で、実はあまりおすすめできるものではない。

 まず人物の掘り下げが一番の問題点で、主人公が何を望み、何をおそれているのか不明確で、同時に人間に近いアンドロイドが要請される社会の背景の説明がない。

 そういうわけで、この物語は端的に言って、主人公が子供をほしがっていたのか、AIをつくりたがっていたのか、その両方なのか不明なのだった

 で、そういうことが不明であっても、泣き上戸の観客を「号泣」させることは、可能であるのが映画の深淵な点なのだ。

 

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 問題は、一晩あけて、ふいに心の中に浮かんだのは、この天才ロボット科学者は何をしたかったのか、ということだ。

 いや、もっとはっきり言えば私の中にあるのは、怒りなのだ。

 なせなら人を泣かせておきながら、この物語では重要な問題意識がないからだ。

 物語で、その一番重要な問いかけがないまま映画を作り出してしまったがために、

 観客の胸にもやもやが残る。

 

 

 その重要な問いとは、人工知能は人間に似せてつくる必要があるのか、ということだ。

 

 結論から言って、私はないと思う。

 そもそも、それが可能かという問題があると思うのだが、この物語でつくられたエヴァという自立型アンドロイド初号機(この単語のセレクトは何かを思い出す笑)は、そもそも人間にかなり近く、感情のコントロールができず、それゆえ最終的には人間に危害を加えてしまう。情緒の不安定さも含めて、人間にかなり近いアンドロイドなのだが、であれば、そんなアンドロイドはいらない。人間の子供をつくればいい。

 というのが、私の結論だ。

 以前、私は家族の代わりになるアンドロイドの話を書いたことがあるのだが、やはりそれは切ない終わり方をした。

 人間のように思考し、感情をもち、欠陥のあるAIは魅力的であるが、私はそういう存在は人間が担うべきだと思うのだ。

 もし、それがどうしても無理な環境、たとえば辺境の異星での単独任務とか、産児制限のある社会での子供の代替物だとか(これも最悪だと思うが)そういう場面でしか、人間に近いAIをつくるべきではないと思う。

 

 私がおそれているのは、AIの反乱ではなくその逆だ

 あまりに人間に近いAIがいたら、人間は人間を必要としなくなるのではないかと思うからだ。

 人間は人間によってしか人間らしさを学ぶこともできないし、学ぶべきでないような気がする。

 もちろん、人間は環境から、動物から、マシンから学ぶことはある。あるけれども、人間が愛や憎しみを学ぶ基礎は人間になければならないと思う。

 もし、人間のように怒らず、攻撃せず、常に冷静で優しい人間そっくりのAIがいたら、私は絶対依存症になり、AIと私を引き離そうとした人類にテロを加えることになる気がする。

 私におこることはきっと人類にも起こるだろう。

 というわけで、現実にそんな優秀なAIができる前に私はきっとおばあちゃんになり、さっさと天国に移住したいと思うのだった。

 きっと、私は人間よりやさしいAIを愛してしまうから。

 

 

備考:

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