NANA★LAND

ぐだぐだ日記としか、、、

5月13日(日)タイムループの魅力

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 イムループ、もしくはタイムトラベル。

 なんて、甘美な響きなのだろう。

 私も作家を目指すはしくれとして、実はずっと構想を練っているタイムトラベルものがある。

 例によって、考えているうちに頭が混乱してくるのだが、最近はこの「過去にもどったら、未来からきた自分はどうなるのか」というタイムパラドックスに議論が及びそうになると、「あまり深く考えるのはやめろ」と登場人物がそうそうに会話を打ち切るシーンをよく見る。

 

 賢明な処置だ。

 

 タイムパラドックスは考え始めると必ず矛盾が生じる。

 

 だから、はじめから釘を指すという奴だ。

 

 「ルーパー」という未来から来た自分と戦うという映画がある。

 物語の軸は未来で妻を失うことを阻止するために過去に戻った男と、

 過去に戻った自分を始末する暗殺業に従事する主人公との対決にある。

 ここに将来主人公達に災禍を及ぼすことになる超能力者である少年が登場する。

 

 主人公は少年との出会いを通して、少年の未来を守るために、ある重要な決断をする。

 それは、主人公の価値観を変える決断で、ありていに言えば物語として及第点に達するし、もちろん、いい感じのラストで見応えはある。

 

 タイムトラベルものは、未来を知っている人間が過去にもどり何かを「やり直す」ものが多い。

 それはほとんどが切実なもので、多くの場合命のやりとりにまで発展する。

 過去を変えることで、未来が変わるというのはよく考えると当たり前のことだ。

 それは今を生きている私達にしても同じことだけれど、比較する見えている未来がないから、重要な決断をしているとは思えない。

 

 しかし、もし今ここで未来が見えるとしたら、たぶん必死になるに違いない。

 でも、必死になるのはいつだって未来を知っている未来からきた側の人間だけだ。

 もし、今を生きながら未来をかいま見ることができたら。

 そうしたら、必死になるような気がする。

 それは、私が楽観的なせいかもしれないけれど。

 たぶん、私たちが未来を見ることはおそらく永遠にできず、想像することしかできない。

 現実でできるのは、いわゆる「未来を思い描く」だけかもしれない。

 でも、私はときどき想像する。

 もし、未来から私の子孫が来たらどうなるだろうと。

 きっとその子孫は、私に説教をする気がする。

 なんというか、もっと旅行しろとか言う気がする笑

 そして、もっと勉強して、もっと働けというかもしれない。もっと家族を大事にして、もっと日々に感謝しろといういうかもしれない。

 私はなんというか、未来は今より美しくないような場所になっている気がする。

 そういう意味では悲観的なのだ。

 で、いま言ったようなことはすべて今から、実行できることなのだから、

 やっぱり昨日と同じように日々努力して、楽しんで、感謝して笑って、泣いて生きていこうと思うのだった。

 

5月13日(日)映画:EVA~エヴァ~AIを人間に似せる必要

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(今回の酷評(笑)映画はこちら。うそうそ、泣かされました)

(2011スペイン制作 子ども型アンドロイドのお話です)

 

 主人公はこれからどうするんだろう。

 時々、映画を観たあとに感じるこの種の疑問は、そのエンディングがバッドであることが多い。

 いや、ホラーではなくて今回の映画は子供型AIが登場するヒューマンドラマ系だったのだが、そのラストははっきり言えば、「ん?」という感じだった。

 私は映画ではカンフーパンダの冒頭で師匠との別離のシーンで大泣きしてしまうくらい感情移入度が高いので(師弟愛萌えなだけじゃ・・・笑)、できるだけ「感動」のタグ入りの映画には手を出さないようにしている。

 だって、泣くと疲れちゃうからね。

 

 

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 (AIの心臓部を制作中の天才ロボット工学者役のダニエル・ブリューリュ)

(いろんな映画でみかけますが、見ているうちにすっごい好きになる庶民的美男)

 

 

 なので、この映画のラストで「お、このシーンで観客を泣かすつもりだな? だけど、泣けないぞ。

 脚本として失敗してないか?」などと、

 上目線で映画のデキにいちゃもんをつけながら、ワインをすすってたのだが、

 そのシーンこそ主人公が親子同然の間柄になったエヴァという姪っ子がアンドロイドであることがわかり、なおかつ攻撃的欠陥のために、

 再起動という名の「リセット」をしなくてはいけない、主人公断腸のシーンであり、いわば、「お涙ちょうだい」のクライマックスだ。

 

 再起動をすれば、今までの「メモリ」たる記憶はアンドロイドから失われ、初期化され、つまり姪っ子は死を迎える。

 

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(主人公と少女は当初、叔父と姪っ子の関係ですが、どんどん親子っぽくなっていきます)

 

 なので、くどいようだが、ここで「泣けなければ」この映画は「失敗」なのだ。

 で、私は失敗した映画をみると、実はほっとする。

「ああ、泣かされなくてよかった」

 というのもあるが、内心は複雑だ。

 複雑さに理由のひとつは、映画分析症候群からくる、赤ペン先生の気持ちであり、「プロでもこの程度の脚本で映像化までこぎつけることができるのか」という安堵と失望の入り混じった心情であり、

 もうひとつは個人的に「泣く」と、切なくて寂しくなっちゃうからだ。

 泣くとすっきりするという人もいるが、私はなんだか、泣くと疲れてしまう。泣いても肩を抱いてくれる恋人がいるわけではないし、せいぜい息子である猫たちの背中に鼻水と涙をぐしょぐしょにつけて、息子たちにいやがられるだけだからだ。

 

 

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(近づくな~wwの図)

 

 

 そういうわけで、この映画のクライマックスで、「この程度か。ほっとするぜ」

 と思いながら、ある意味で泣かされなかった脚本の「失敗」についてあれこれ分析をしはじめたところ、なんと映画はまだ終わらなかった

 

 

 再起動をかけて画面が暗澹したあと、つづきがあったのだ。

 

 

 記憶というかメモリが消えていくエヴァの脳裏に、いままでの記憶がひとつひとつ蘇る。そして、それが一つずつ消去されていった先、すべてが消えると思ったその先に、消えないシーンが残った。

それは、母親と主人公と彼女自身が海岸の波打ち際で本物の親子のように戯れているシーンだ。

 これは、実現しなかったエヴァの希望であり、同時に、主人公、そして物語中で死亡した主人公の恋人であるラナの共通の夢だった。

 三人はロボット製作者とそのアンドロイドという関係だったが、これは親子の関係ともいえる。

 このシーンで、私はワインの入ったグラスを落として(割れずに済んだが、ラグにシミが落ちない血糊が残ることに)、涙腺が崩壊した。

 

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エヴァの神経回路:人間でいうシナプス的な回路を視覚的に表現するためにこんなアメーバのような水滴を多用しているシーン。これが幻想的かつ有機的で映像としては素敵です)

 

 

 実現しなかった、親子関係。

 

 なんというか、演出家の勝利である。

 もう、涙腺崩壊である。

 言い訳をしたいが、この涙は断じて脚本家の勝利ではない。

 演出家の勝利である。

 私は鼻をぐずぐずさせながら、嗚咽をもらし、

「卑怯だ。そういうラストは卑怯だ!!!」

 と連呼しながらティッシュに手をのばした。

 

 そういうことがあったのだが、とはいえこの映画はやはり様々な疑問を放置したまま終わっているという点で、実はあまりおすすめできるものではない。

 まず人物の掘り下げが一番の問題点で、主人公が何を望み、何をおそれているのか不明確で、同時に人間に近いアンドロイドが要請される社会の背景の説明がない。

 そういうわけで、この物語は端的に言って、主人公が子供をほしがっていたのか、AIをつくりたがっていたのか、その両方なのか不明なのだった

 で、そういうことが不明であっても、泣き上戸の観客を「号泣」させることは、可能であるのが映画の深淵な点なのだ。

 

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 問題は、一晩あけて、ふいに心の中に浮かんだのは、この天才ロボット科学者は何をしたかったのか、ということだ。

 いや、もっとはっきり言えば私の中にあるのは、怒りなのだ。

 なせなら人を泣かせておきながら、この物語では重要な問題意識がないからだ。

 物語で、その一番重要な問いかけがないまま映画を作り出してしまったがために、

 観客の胸にもやもやが残る。

 

 

 その重要な問いとは、人工知能は人間に似せてつくる必要があるのか、ということだ。

 

 結論から言って、私はないと思う。

 そもそも、それが可能かという問題があると思うのだが、この物語でつくられたエヴァという自立型アンドロイド初号機(この単語のセレクトは何かを思い出す笑)は、そもそも人間にかなり近く、感情のコントロールができず、それゆえ最終的には人間に危害を加えてしまう。情緒の不安定さも含めて、人間にかなり近いアンドロイドなのだが、であれば、そんなアンドロイドはいらない。人間の子供をつくればいい。

 というのが、私の結論だ。

 以前、私は家族の代わりになるアンドロイドの話を書いたことがあるのだが、やはりそれは切ない終わり方をした。

 人間のように思考し、感情をもち、欠陥のあるAIは魅力的であるが、私はそういう存在は人間が担うべきだと思うのだ。

 もし、それがどうしても無理な環境、たとえば辺境の異星での単独任務とか、産児制限のある社会での子供の代替物だとか(これも最悪だと思うが)そういう場面でしか、人間に近いAIをつくるべきではないと思う。

 

 私がおそれているのは、AIの反乱ではなくその逆だ

 あまりに人間に近いAIがいたら、人間は人間を必要としなくなるのではないかと思うからだ。

 人間は人間によってしか人間らしさを学ぶこともできないし、学ぶべきでないような気がする。

 もちろん、人間は環境から、動物から、マシンから学ぶことはある。あるけれども、人間が愛や憎しみを学ぶ基礎は人間になければならないと思う。

 もし、人間のように怒らず、攻撃せず、常に冷静で優しい人間そっくりのAIがいたら、私は絶対依存症になり、AIと私を引き離そうとした人類にテロを加えることになる気がする。

 私におこることはきっと人類にも起こるだろう。

 というわけで、現実にそんな優秀なAIができる前に私はきっとおばあちゃんになり、さっさと天国に移住したいと思うのだった。

 きっと、私は人間よりやさしいAIを愛してしまうから。

 

 

備考:

bookshorts.jp

 

5月3日(木)チベット人に会いたい(旅メイト募集笑)

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(これは、セレブっぽく偶然とれた私の図です)

(なんのことはない。ハロン湾にて、泳げないので、貝拾いの図です)

(めっちゃ真剣さが伝わったのか、世界各国のおばちゃんとおじちゃんが、

 私のために貝拾いを手伝ってくれました(笑))

 

 私は自分がのんびりでぼんやりしているせいか、同じような人が好きだ。

 商魂たくましい人よりも素朴な人、

 野心ある努力家よりも、現状維持の凡人、

 スパイより、ジャッキーチェン

 男達の挽歌よりラッシュアワー ソウよりキューブ

 ジブリよりカンフーパンダ(ジャッキー率高すぎだろ)

 しかしながら、南の国より、山岳地帯だ。

 

 南の国といっても、幅が広い。

 広義の意味では沖縄、オセアニアASEAN諸国などなど。

 山岳地帯は、狭義の意味でユーラシア。アジア大陸に限定したい。

 そうすと、カラコルム、ヒマラヤ、ヒンズー・クシ山脈等々。

 で、私は今、山岳地帯に猛烈に行きたい。

 

 今回、何も考えずにベトナムに行ってみたが、いわゆる「アジア」は分かれる、というフレーズに賛成だ。

 もうとにかく、アジアの街はうるさい。

 うるさすぎる。

 クラクション、クラクション、クラクション、人いきれ、車、車、車、バイク、バイク、バイク、ヤマハのバイク。バイクはヤマハ

 これは、中国の西安に行ったときも、モンゴルのウランバートルに行ったときも、ベトナムハノイに行ったときも同じだ。

 ウランバートルは渋滞しているだけで、喧噪じみてはいなかったし、人口も百万ちょいだったので、なんてことはないのだが、西安ハノイも八百万都市だから、人津波と車並がハンパない。

 商魂たくましいのも同じで、こ汚いところでご飯を食べるのも同じ。

 ある意味で、緊張感の強いられる場所だ。

 だが、ウランバートルは違った。

 なんというか素朴で、優しい。親日のせいもあるが、日本人が忘れてしまったような素朴さを持っている。といって、私も忘れられた日本人というのを知っているわけではないのだが。

 とにかく、今は山岳地帯に行ってみたい。

 チベット、インドの奥地ラダック、そして、パキスタン国境フンザ

 ああ、山が見たい。

 山の民に会いたい。

 海上民のような生き馬の目を射抜くようなキレキレの頭脳を持つパイレーツではなく、山の民に会いたい。

 そうして、もう一度、自分にとって何が大事なのか、すべてのあるべき価値観をリセットしたい。

 簡単にリセットできないほど、この狭い国で生きることに従順になっている自分が疎ましい。

 

 備考 そういうわけで、チベットに今年の7月に行ける人をこっそり募集しています。

 気になる方は、

coco-machi.jp

をご覧ください(結局宣伝かい笑)

いやあ、チベット一緒に行ってくれる人なかなかいなくて(笑)

5月3日(木)こじらせ系の転地療法(海外旅行へがんがん行く)

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ベトナムハロン湾の奥地の島で。思いっきりだっさいポーズw)

(これこそ、インスタ外野のセンス!!)

(完全にヨガ的ポーズの左が私です笑)

 

 昔、なにかの本で読んだ。

 1000回嘘をつけば、真実になる。

 それとも1万回だったろうか。

 いずれにしても、それこそが嘘だったと今ではわかる。

 いや、条件つき嘘というか

 嘘が真実になるためには、回数は必要条件だが、十分条件にはならない。

 嘘を真実にするためには、心が伴っていなくてはならない。

 つまり、心の底から「真実になれ」と念じる気力が伴っていなくてはならない

 心の伴わない嘘を10年続けたとしても、それは自分を偽ることにしかならない。

 そういうわけで、私は自分で軽くつき始めた嘘がやはり嘘だったということに、最近になるまで忘れていた。

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世界遺産そっちのけで、日本のせんべいをばりばり食べる私)

(思いっきり、曇りでしたよ。。(笑))

 

 

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(晴れるとこうらしい(笑))

 

 

 

 嘘。

 

 嘘というのは便利で、言い換えれば擬態だ。

 周囲とバランスよくやる能力。

 でも、バランスをとるのは目的ではなく、手段のはずだ。

 それが、なれないバランスとりを長くやっているうちに、バランスをすること自体が目的になってしまった。

 その嘘が、真実になればよかったものの、私の本質はどうやら非バランスにあるらしい。

 言ってみれば、この十年は自分がバランスのとれた生き方ができるかできないかの壮大な、そして同時に無意味な実験だった。

 しかし、長く擬態をしていると、心の底で悲鳴をあげているのに、行動がなかなかバランス圏外から抜け出せない。

 ほんとうに、心と体がばらばらな動きをしてしまうのだ。

 

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(今回のメイン:アウコー号で回る2泊三日ハロン湾クルーズ)

 

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(船内のディナー:世界各国のファミリーが集うw)

(インド、アメリカ、スイス、日本、ベトナム、北欧?)

(もう、絶対殺人事件おこならないとだめだよね!!)

 

 人は病からどのように抜け出すのか、ここのところずっと考えていた。

 特に心に浸透した「自分を偽る」という病からの完治はどのようにすればいいのか。

 私は完治までの方法を三段階としてみた。

 まず

 ①病の自覚

 ②治療・改善を行う

 ③完治して、病を客観的に反省する

 

 で、今①

 完治まではほど遠い。

 しかし、染み着いてしまったバランス感覚というのは心がいやがっても、擬態をするメリットがある以上、自分の心にふたをしてでも発揮してしまう。

 これをどうするか。

 もう、転地療法しかないと思ったのである。

 そこで、海外旅行だ。

 

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(春巻き作り選手権・ 左から日本、アメリカ、ドイツ)

(私のつくった奴は「ROUGH!!すぎ!(雑な巻き方)」と評価されました(笑))

(みんな、爆笑の図)

 

 海外旅行。

 なんとバブリーな響き。

 しかし、私の目的は治療だ。

 行き過ぎたバランス感覚を軌道修正し、自分らしく生きるために、このバランス感覚を極度に求めてやまない「世間体の優しい国家」からの逃亡だ。

 というわけで、

 ①の病の自覚から、心のバランスとアクションの修正のためにも旅のプランを三つしてみた。

 行き先の条件は、

  • 近場で5日以内で帰宅できる。

 ②日本の「あるべき」価値観をふっとばす場所。

  • 戦場地帯ではない。

 

 この中で、②が一番ファジーなのだが、目的からして、日本人がたくさん行くようなリゾート地は避けなければならない。日本的価値観に触れると、病がぶり返すからだ。

 なので、考えられるのは秘境、異教徒の都市などがいいと思われる。

 

 すでに、今年はベトナムハロン湾で散財してしまったのだが、ここはリゾート地とまではいかないが、秘境にはほど遠く、言ってみれば宮城県松島のような場所だ。ただし、三日間のラグジュアリークルーズのおかげで、自分の病に気づくことができた。

 これは大きい。

 病の自覚。

 ここからが、治療と改善への本番だ。

 年内、なんとか海外旅行をあと二本クリアし、病の完治を急ぐ。

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(アウコー号:スタッフもゲストもみな素敵な人々です)

(ぜひ、ご家族でおためしあれ)

 

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(スタッフのみんな)

(アウコー号のスタッフはみんな気さくでやさしくてキュート)

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(船長さんも、職場の先輩みたいな感じでとってもやさしいw)

 

 

 旅は終わってからが本番だとは、私がいつも自分自身に言っているもので、家が大好きな私は本当は家にいたくてたまらない。

 でも、日常を偽っていることに気がつかず、不満がたまり、日常そのものが息苦しくなってしまった今、私は正常な日常に戻るために、あと二度転地療法をしなくてはならない。

 この「しなくてはならない」という理由をつけなければ、海外旅行ができない私は、やはり日本的バランス病の罹患者だ。

 そんなのどうでもいいじゃん。

 旅なんかしたいときにすれば。

 

 はやく、こうなりたい。

 めざせ、完治。 

 

 

 

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(おしまい)

5月3日(木)ベトナムと日本の150年

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 (ベトナム・首都ハノイの旧市街・雑踏)

 

 

 ただ、日本を離れたい。

 だから事前勉強はおろか、滞在中もことさら歴史を学ぼうという気もなかった。

 けれど、それでもその風景は異常な気がした。

 その地というのはベトナムである。

 

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(旧市街 とにかくスクーターが多い。ほとんどヤマハ製 みな時速20キロぐらいで

 信号無視。歩行者も信号無視して、ゆっくり歩けば、向こうがよけてくれる)

(カオスの中の遠慮)

 

 

 ベトナムは、列記とした母国語が存在するが、その表記はアルファベットだ。

 漢字っぽい象形文字でもなく、蛇ののたくったようなアラビア文字でもない。

 そう、私たちのよく知るABCのアルファベットである。

 漢字を基礎としたベトナム語は博物館の展示品へとなり下がり、町じゅうにあふれているのは、アルファベットなのだ。

 アルファベット。

 それはベトナムの苦難の歴史を物語るもので、

 かつては大国中国、そしてフランス、

 日本の支配を潜り抜けた末にこの国が獲得した奇妙な文化のスープの

 根幹をなすものだ。

 

 

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(雑踏はとにかくうるさい。バイクのクラクションが、縦横無尽になっている)

(うるさい! と大声で叫びながら通りを歩いてもすぐかき消される(笑))

 

 

 大陸の末端に位置し、それゆえ中国の支配を受けたためにベトナム語自体は漢字表記に起源を持つ。

 中華の支配を受けた時代は、起源後1000年間。中国でいう漢から唐の時代。

 つまり、中国の全盛期だ。

 

 紀元後1000年は、その後のイスラム、モンゴル、大英帝国という世界史の

 メインストリームが入れ替わる以前のことであり、

 まさに中華の華々しい時代だった。

 

 この頃島国弱小だった日本は、

 中国に認められることで国際社会の仲間入りをするのでやっとであり、

 それどころか、中華をお手本に必死にこの偉大な師から学問をしていた。

 その初期の漢の頃は、金印をもらうことで、大和朝廷は周囲のハヤトやクマソなどの雑居集団から飛び抜けることができたし、

 唐の頃はシルクロードの魔都・長安の都を模し、平城京という首都建築、律令という政治制度を輸入した。

 

 その時期、日本を含むアジアの小国にとっての中国は、一方的に教えをこう偉大なマイスターのごとき存在であり、それこそたてついたところで赤子の手をひねるようにつぶされていただろう。

 

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(旧市街。通りが全部同じにみえて、迷う)

(日本にはない半コロニアル、中華とフレンチ。食べるとおいしいけど、町としては雑踏で入り組んだ迷路)

(あと、バイク(笑))

 

 

 とはいえ、日本の場合は日本海、そして中華と対立する韓国という国が沿岸にあったおかげで「いい感じの距離感」がとれた。

 しかし、大陸でつながっているということは、

 「ご近所」さんであり「スープの冷めない」距離であり、

 いや、それ以上に強権を発するマイスターのご機嫌を損ねれば

 即刻戦争という近さだった。

 

 そういうわけで、日本など足下にも及ばないレベルで

 ベトナムは中華の影響下にありつづけたというか、

 常に戦争をしかけられ、

 文化的には文字の表記に中華の影響を色濃く残す千年を重ねた。

 

 中華の衰退ののち、しばらく平安が続いたが、17世紀の中期以降、欧米列強の先兵、フランスの支配が始まる。

 この時期は中国の歴史で言うと、アヘン戦争のあたり、日本でいうと、明治維新から太平洋戦争終了までだ。

 この150年の支配は本当に驚くべきことで、日本に明治維新がなくて、そのまま欧米列強の支配があったら、ということを地で行く歴史だ。

 

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ベトナム人の移動手段はバイク。

 イタリアの縦列駐車ならぬ、並列駐車。道が狭くなって、歩道側では食事をしている現地人がいて、やむなく車道をあるくはめに)

 

 なので、これを書いていてふと思ったのは、高杉晋作坂本竜馬あたりと一緒にめぐる現代のベトナムツアーなんてものがあったら、もうなんていうか大変なことになるだろうと思うのだ。

 晋作は「それみたことか」というかもしれないし、竜馬はどうだろう?

 彼はにやにやしたあと、すぐに悲しそうに微笑むかもしれない。

 ベトナムはそういうわけで、その末期にフランスだけでなく、日本の支配も受けるが、その後革命家ホーチミンによって二国からの独立を成功させる。

 

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ホーチミン。建国の父だが、その風貌がただのおじいさんに見えるため、

 ポストカードをお土産にしたら、祖母に「これがベトナムの農家のおっさんの写真か」と言われたという。。オーラだせよ!ホーチミンなんてね、、すみません)

 

 今、外国人がベトナムを旅行して目にするものは、アルファベット表記の看板であふれるアジアの雑踏だ。

 これが何を意味するのか、想像することは難しい。

 大国の近隣で、常にその影響下にありつつも、ベトナムという地域性はたくましく生き続けてきた。

 しかし、かつての中華に起源を持つベトナム語は消え去り、フランス支配の残したアルファベット表記にベトナム語は変化した

 それをインターナショナルといっていいのか、異国情緒ととっていいのか。

 ただ、それは日本がたどってきた道とは違いすぎており、言語の表記を奪われることがどれほどのことなのか、実のところ私にはよくわからない。

 

 思い出すことは、ある本の一説だ。

 

 戦争の最大の目的は、相手の思想と文化を奪うことだ。相手の価値観を奪い、こちらの価値観に染め上げること

 それは、いわゆる精神的支配であり、アジアの片隅の国の言葉と文字という思考を白人の使うアルファベットに染め上げたということに対して、他人事ではないなにか怒りのようなものを感じずにはいられない。

 

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ベトナム戦争の有名な写真。今は博物館になっている刑務所博物館のポストカードにもありました。こんな悲惨な戦争がたった40年前にありました)

(映画だけはいっぱい見てる。プラトーンフルメタル・ジャケット

 

 しかし、その怒りの理由はわかるにしても、どんな怒りの種類なのかは、実のところわからない。

 それは、日本もまた違う形で欧米色に染められているからなのではないかと思う。

 そして、またしても、もし、ここに高杉晋作坂本竜馬の二人がいたら、今のベトナムと日本と見て、なんというだろうか。

 私は彼らがなんとなくこの状況を楽しんでくれるような気がする。

 純粋というのはおもしろくない。

 今では国民国家という概念になってしまった日本、日本人という感覚。国境線という言い方をしなければ、その土地に根ざした地域性。

 そういうものは、たとえ外からどんな支配をされようとも、しぶとく形を変えて生き残っていくような気もする。

 それとも、そんなおおらかな気でいられるのも、日本が明治維新をやり遂げ、なんとか植民地という表向きの支配を逃れられたからかもしれない。

 だから、こんな私と見たら、二人とも、「そんなことを言ってられるのは、幕末に大量の日本人の血が流れたからだ」と怒るかもしれない。

 そんな思いもあって、強い日差しに照らされたベトナムの雑踏をあるくと、維新を成し遂げた日本人への誇らしさがふいに湧き上がってくるのだった。

4月22日(日)ふさわしい愛

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(いや、押井さんの主張とは今回逆なんですが、表紙がかわいすぎて、、つい笑)

(逆です。今回のテーマは友だちは必要です。笑)

 

 

 友情、恋人への愛情、子どもへの愛情、親への愛情、同僚への愛情、後輩への愛情、上司への愛情。

 愛情の示し方は、人間関係によって違ってくる。

 恋人への愛情の示し方を男友達にすると、誤解をさせるし、親との愛情関係を友情関係に持ち込めば、友だちは去っていく。

 「適正な愛情の示し方」は豊かな人間関係を持っていれば、問題なく消化される。

 若い頃は、それができずに恋人の関係を友情に持ち込んだり、満たされない関係を違う人間関係に持ち込んでトラブルを起こしてしまっていた。

 この年になり、こんなことを防ぐためにも、自分をよく知り、その価値観の数だけ友人は多いほうがいいのではないかと思うようになった。

 

 とはいえ、友人の多さはいつでもどこでも誰にでも当てはまるわけではない。

 今の私には友人は多いほうがいいということにすぎない。

 価値観、興味関心の数だけ友人はいたほうが、今の私にはあっている。

 これは、少し前の私には考えられないことだった。

 本があれば、たいていのことは気持ちの整理がついたのだ。

 

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(不安にはならないんですね。。むしろ少しくらい不安になれという。。(笑)

 

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(幽霊白書、、(笑)なんでこういうの持ってくるんだよ。趣旨にあってなくない?(笑)

 

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(だから、やめろって、、、笑)

 

 

 今は、本と友だちの両方がほしい。

 単に欲張りなった気もするが、量と深さは常にトレードオフだ。

 そう、つまり今の私は広く(必然的に浅くなっちゃうけど)友だちがほしい。

 色々な価値観に触れていることが、癒しになる。

広く浅く友だちとつきあっていても、そのつきあいから、深さを引き出せる。今は、そういう時期のような気がしている。

 だから、これを読まれている方の中にも友だちはいらないと思っている人がいるかもしれないが、友だちは必要になるときがくるかもしれないので、常日頃から細い糸だけはつないでいたほうがいいと思う。

 細い糸でもつながっていれば、再会したとき、価値観が会えば、あっという間に友だちに戻れてしまうからだ。

 いつでも友だちが必要だなんて、私は思わない。ただ、必要になる時がくると思う。

 私の場合は来た。

 自分が揺らいでいるように見えて、自分が確立されつつある今、私にはやっと色々な価値観を受け入れられる余裕ができて、友だちづきあいがとても充実したものになっている。

 そして、友だちつきあいが充実すれば、家族やパートナーとの関係も良好になるのではないかと思う。

 そして、それが人生の幸せ、少なくとも私にとっては幸せの十分条件だと思う。

4月22日(日)私の愛の取り扱いかた

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(愛と言ってしまえば、愛だけど、ただ単に人が放つエネルギーだと思うのです)

 

 

 同じことを違う人から、別々のタイミングで言われたことがある。

 あなたは、彼よりも愛のエネルギーが深くて大きいから、彼はあなたの愛に応えられない。

 あなたの愛は深くて大きいから、あなた自身が飲み込まれないように、愛の取り扱い方を学ばなくてはならない。

 

 

 愛はエネルギーだと思う。

 

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(エネルギーの数式ねw 意味はもちろん、わからないわよ。超絶文系だからw)

 

 

 愛と言ってしまえばくくられてしまうけれど、とどのつまり、物事を変えていく大本というか、あるべき姿を持続させようとするものというか、とにかく虚無に抵抗するエネルギーだと、私は思う。

 

 

 若い時の恋愛は失敗の連続だった。

 振り返ってみれば、愛の返却を求めてはならない異性ばかりを好きになっていたから恋愛がうまく行くはずもなかった。

それを悔やんだこともある。しかし、そういう異性を好きになるのはしかたのないことだとも思っていた。

 

 私のする恋愛は報われない。

 そう思ったとき、私はエネルギーを分割することにした。

 

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(よくこんな色気のない画像持ってきたな。。(笑)

 

 

 愛の供給先を異性ではなく、自分に向けたのだ。自分自身がやりたいこと、やるべきこと、つまり、仕事だ。

 仕事に没頭すると、自分に愛を返却してくれない異性には敏感になる。

 仕事に注いでいる分、エネルギーが半分以下になってもうまく行く関係だけが残っていく。

 とはいえ、私の愛の向かう先は、またしても異性から仕事に移っただけで一本化されてしまっていた。

 本来そこに注ぐべき力以上のものを注ぐとき、全体としてのバランスが崩れる。

 今度もまた同じ失敗を繰り返した。

 当たり前だが、仕事は愛を返却はしてくれない。成果だけを返却する。

 またしても、愛の回収に失敗をしてしまった。

 

 そんな失敗の連続の果て、ここ二年ほど考えていたのは、愛の分割だ。

 愛を仕事と家庭と趣味の三つに振り分ける。

 こんな単純なこと、なぜ今になって気がつかなければならないのか。

 おそらく、それほど私の愛もといエネルギーは単純でかつ変に膨大なのかもしれない。

 そういうわけで、私は今、愛が振り分けられるものというプランの元、意識的に自分の愛の供給量を限定的にしている。

 愛を放出しすぎると、バランスが崩れる。

 それは、ときに相手の依存をまねき、相手を堕落させ、その結果、相手は私をうらむようになる。

 

 

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(愛が深すぎて、私もよく飼い猫Sにやる仕打ち。。もふもふ気持ちいい~w(笑))

 

 

 本来、愛は恐ろしいものなのだ。

 それは、単純に言ってしまえば生物が放つ虚無に対する抵抗の力であり、それは本来よくも悪くもない。

 その取り扱いに注意しなければ、愛は本人さえも飲み込んでしまう。

 優しく包み込めるような愛に原石である愛を磨いていくのは思ったよりも難しく、その取扱いは厳重にしなければならない。とくに、私の場合。