NANA★LAND

ぐだぐだ日記としか、、、

10月15日(日)消防団なんてなくなってしまえばいい

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マクドナルドじゃないよw 消防だよ)

(今回は怒りの叫びがメインになります)

  

 日ごろ、のほほんとした性格なのでめったに腹を立てることがない私(鈍感なだけじゃ)だが、思い出すだけでいらいらすることがある。

 消防団だ。

 結論がタイトルそのものだが、まじで心の底からなくなってほしい。

 いや、消防団という存在がではなく、むしろ消防団を熱烈に愛し、時代のニーズも現実的な若者の置かれた状況も無視し、無茶な思い込みをつきつけてくる年寄世代に消えてほしい。

 それくらいイライラして、心底頭に来ている。

 とにかく、消防団よ、消えろ。

 その前に、消防団をただ存続させたい年寄いなくなれ。

 と、言うのが今回のブログの趣旨です。

 

消防団なんか大嫌いだ】

 消防団という存在をみなさん、知っていますでしょうか。

 田舎や地方で暮らしていて、かつ成人した男性ならばこのフレーズを聞いたことがあるでしょう。

 聞くだけでなく、加入を強制されたことさえあるのではないでしょうか。

 この地域というか近所というかコミュニティ単位の自助防衛組織が「消防団」であります。地域で火災や事故や洪水(川の水があふれるとか)が起きた場合に招集がかかり、団のメンバーは現場に駆けつけて地域を守るために働きます。

 最近は、めったに近所で火事が起きることもなくなりましたが、私が幼かった30年くらい前は、近所で雨が降るたびに増水した川の水があふれ、そんな夜は帰宅時間が早かった父親消防団員として、とるものも取らず消防服に身を包み、現場に急行したものです。

 

 例によって父が関わるものはすべてクールではないと判断していた私は、消防団も父のギターやバイクやロックやつりや将棋や囲碁パソコン通信と同じようにダサいものだとカテゴライズしていました。

 

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(今では父から私に消防団も世代チェンジ)

(私も学生時代はチャイナドレスに網タイツはいていたけど、まさかこんなコスプレは未体験w)

 

 

 大人になり、自分が父と近い公務員になり、行政職員として政治家の近くで働くようになり、そこではじめて功労者という言葉をしり、それにカテゴライズされた人々が亡くなったときに町長が弔辞を読むというしきたりに触れ、それを秘書である自分が執筆するに至り、地域の発展や治安の維持に貢献した人々に対する尊敬がはじめて生まれました。

 そうした地域の人々への尊敬というのは、こうした環境があったからと言って、簡単に芽生えるものではなくて、私の場合は自分が仕えることになった町長がそうした地域の人々への深く温かいまなざしを持っていたからでした。

 政治家がすべて名もなき地域の貢献者にたいして尊敬と畏敬のまなざしを持っているわけではもちろんなく、私がたまたたま仕えた人がそういう政治家だったからこそ、私はこうしたことを学び、感じるチャンスに恵まれました。

 

 しかし、まさか自分が消防団員になってしまうとは夢にも思いませんでしたし(規律と訓練はもっとも苦手をするところなので)、まして本来誇りをもって取り組めるはずの消防団員の職務に対して、とことん嫌気がさし、消防団員を統括する年寄連中に消えてほしいとさえ思うようになるとはこれまた夢にも思わなかったのでした。

 

【入団の経緯……あれは5年前のこと】

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(日本全国で行われている消防ポンプ操法大会)

(私は応援とアナウンスで6回ぐらい出てます)

 

 例によって、私の後先考えずにアクションを起こしてしまったことがそもそものはじまりでした。

 あれは、五年前。

 「ユー、消防団やってみない?」

 私に当時声をかけてきたのは、地域防災を統括する部署の同僚でした。

 私は例によって深く考えもせず、

「ミー、やるやる」

 と、OKサインをすぐに出してしまいました。

 今思えば、全力で、過去の自分自身を阻止したいところです。 

 というか、同僚にもそんな女性消防団なんていう組織をつくろうなどと何がなんでも発案させるべきではありませんでした。

 でも、いまさら後悔したってはじまらないのです。

 

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(後悔……)

 

 それに、それがわかったとしても、私はやっぱり同僚の誘いは断れなかったと思います。

 これは、気が小さいからではなくて、変にボランティアには協力しようというか、頼まれたらやってみなくちゃね、という変な義侠心が私の中にあるからです。

 これは、公務員として私がただ一つ自分自身に課している掟のようなもので、公務員という職に夢も希望も持たない(持てる気がいまだしません)以上、仕事で私が大事にしなければならない信念は、「職場の仲間を大事にして、信頼関係を築く」ということだけなのです。

 この信念があれば、仕事仲間を大事にしますし、大事にする以上、仕事もおろそかにしない、という地味というかある意味で最低限の人として生きていく目標が成立します。

 そういうわけで、私の職務に対する愛情はその程度であり、しかし、そうである以上、自分から走ろうという気はなくも、仕事を大事にしているある同僚にレッツランと言われたら、ウィズユーwとレッツランするのが私の人生の指針なのです。

 

 

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(みんな、ボランティアの意味って知ってる?)

(職場では自主的って書いて、強制的って読むのよ)

 

 そんな浅薄な動機でレッツランしようとしたとき、当時の私の直属の上司(クールすぎるミリオタ、城オタクの40歳の独身で、旅行に行くたびに旅先で私の大好物のビーフジャーキー買ってきてくれる)は、

「あとで後悔するぞ」

 と、私を止めたものです。

 もちろん、私は彼の意見など聞きません。

 なぜなら、やらないで後悔するよりも、やって後悔するのがまだましだと思っていたのが、当時の私だからです。

 

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(むしろ、上司は後悔するぞ、と言っていたね……)

(しかし上司のキャラはリヴァイとそっくりです)

 

 残念ながら私は上司と司馬遼太郎ファンという共通点はあっても、彼が歴史から人生を学ぶのに対して、私は経験から学ぶという大きな違いがあったからです。

 賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

 私は後者の愚かものであり、同時にどこかで私が上司を許容できない唯一の点がこの保守的すぎて神経質な部分なのです。

 しかし、今になって思えば上司は私よりも十歳も上であり、役場というか消防団という組織の旧態依然とした体質をよく知っていたのでしょう。

 意気揚々と入った消防団を心底憎むようになるとは、このときの私は夢にも思わなったのです。

 

 消防団を憎む理由。

 

 それは、私たち女性消防団に無意味で無理な要求ばかりをつきつけてくるからです。

 その代表的なものが火消に行けというものです。

 女性があの重いホースを持って火消に行くというのは、誰が考えても現実的ではありません。 

 

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(火消=地獄といっても過言ではない……)

 

 

 そもそも女性消防団の存在意義と仕事とは、心肺蘇生を含む救命活動の普及と、防災の広報活動です。

 それを、男女同権という乱暴な理由で、女性にも火消をしろというのは、とてもまともな考えではありません。

 でも、こういうことを平気で突きつけてくるのが消防団を統括する年寄なのです。

 

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(長老、無理言うのやめてくだせえ)

 

 そもそも、こんな要求をされるのであれば、そもそも入団をOKしたはずがありません。

 当時の話では女性消防団のメインの業務は救命講習という名の心肺蘇生方法や応急処置を地域の人たちに講習するということでした。

 だいたい、ホースを振り回すなんて、どう考えてもこの超絶インドア派の私にできるわけがないし、そもそも自主的とはいえ、ほぼ職場に半強制的に徴兵された私たち、しかもそのほとんどが文系にかたよった女性が火消なんてものができる体力があるわけがない。

 私たち女性消防団員は結局、地域になり手がおらず、町役場の女性職員が9名、半強制的にかき集められて成立しました。一年目は、消防署で24時間の講習を受け、仕事の合間に講習という名で職専免の休暇をもらい、消防署や地域の学校に赴いて、子どもや地域のお年寄りや企業の人々を相手に講習をすることになりました。

 私たち女性消防団は仕事を休んでこの救命講習の業務に行っているのです。

 

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(公務員の消防団加入はほぼ赤紙と同じ威力が……)

 

 女性消防団が役場職員である理由がこれでわかると思います。

 平日の昼間に、一般の仕事を持った人が仕事をぬけて、救命講習にいけるわけがない。

 しかし、私たち女性職員が講習に出席するために仕事を一生懸命調整して講習に行っているにも関わらず、消防団の上層部、言ってみれば消防団をとりしきる村社会の長たちは、「ホースを持たない女子は意味がない」と消防訓練やホース作業に駆り立てようとします。

 まったく私たちの救命講習や広報活動は意味がないと思われています。

 しかし、本当に火消をすることに意味はあるのでしょうか。

 

【現代に火消のための消防団って意味があるの?】 

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(自治消防のはじまりは、徳川吉宗の時代、町火消・常火消しからはじまりました)

(浮世絵で有名な歌川広重もなんと常火消しの役人でした)

 

 消防団ってそもそも必要なのでしょうか。

 私は女性消防団が救命講習をしたり、休日に事故防止や火災防止啓発をするようないわゆる広報活動をすることは意味があると思っています。

 これらの活動は未然に火事を防ぐための防災活動の一環だからです。

 一方で、男性消防団は私たちと同じボランティアですが救命講習の免許はなく、火消のみを担当しています。

 しかし、年々火事自体が減っているのが現状で、男性消防団の活動のメインはポンプ操法というイベントのための過酷な練習になっています。

 この活動こそ、民間人にとってはかなり参加が難しく、私の地域で言えば例によって役場の男性職員が40歳を過ぎてまでずっとやめられず衰えた身体にむちを打って参加しているような状態です。

 繰り返しになりますが、消防団の火消って本当に必要なのでしょうか

 火消をする人が地域の中で、高齢化のために減少し、かつ若者は仕事の重責もあるなかで、若い人たちに上の世代が「俺たちもやってきたから、お前たちも当然だ」という罰ゲーム的な立場を押しつけることは、いまどきはやらないんじゃないかと思うわけです。

 金銭の見返りがほとんどないボランティアである以上、消防団には持ち回りの犠牲者ではなくて、心からやりたいと思わせるような魅力がなければならないし、それよりも、地域防災の観点から本当に必要なのかが一番の問題点です。

 超高齢社会が進む現在、消防団員が地域から徴発できなくなるのは時間の問題です。実際、私の住む地域では、団員が足りな過ぎて、宇都宮市から引っ越したあとも、遠くから消防団の集まりに来る人もいるのです。

 こんな状態では、実際火事が起きたときに、動けるものではありません。

 だったら、消防団は廃止にして民営化に踏み切るしかないのではないのではないでしょうか。たしかに民営化にはお金がかかります。

 一人の消防署職員を雇用すると年間600万かかるところ、消防団員であれば10万円ぐらいで安く使えるので、予算の関係で職員を増やせないのかもしれませんが、どの地域も消防団の存続が難しいなかで、その根拠も若者に説得できないまま、いつまで強権的に火消の人員を増やせと、わめいているのでしょうか。

 私たちはボランティアであり、本来いつでもやめることはできます。

 しかし、地域の貢献したいという気持ちも少しはあります。

 だから、いやいやながらも辞めるとは言わないでいます。

 しかし、堪忍袋の尾がきれて、絶縁状を突き付けるも時間の問題であり、私たちの後の世代は見向きもしなくなるかもしれません。

 たしかに自分たちの地域を自分たちで守っていく自治の精神はとても大切だと思いますが、ただ命令をして、さして意味もないやり方を続けていくだけでは、なり手の心は離れていくばかりです。

 もっと自分たちが心から守りたいという気持ちを根っこにした組織に変えていくのが大事なのに、それが上の世代から伝わってこない。

 それは、上の世代もまた、罰ゲームだと本質的に思っているからではないでしょうか。

 でも、地域を守ることは、本来罰ゲームであるわけがない。

 本当は誰かのためになると思えるからつらいことも一生懸命になってやれるのです。

 しかし、消防団にはそうしたものがない。

 やっても認められないし、それどころか罰ゲームだけを押しつけられる。

 

 もういい加減、やり方を考えていくべきなんじゃないか。

 先日、群馬の山間部の地域が自治体に頼らず、地域の防災マップを作製し、避難所も地域をめぐって自分たちで作っているというニュースを見ました。

 県や町がつくるおおざっぱな防災地図では、逆に災害が起きたときに避難所が危ない場所あったりと、そこに住む人たちだからこそわかる避難場所というものがあることに気がついたからだそうです。そこで自分たちの足で歩いて地域を把握、強力を呼び掛けて、連携をとることになりました。

 これが、行政の力をかりずに自分たちが自分たちの地域を守るというごく当たり前の姿です。

 消防団にこだわる人たちのなかには、こうした地域の連携を目的としていざというとき、顔を互いに知っている関係づくりためにも、消防団に入るべきだということをいう人がいます。

 この論法は、一瞬もっともに聞こえますが、大いなる誤解です。

 私は実際にこの手のトークで年長者が入ったばかりの男性職員を脅迫的に団員に無理やり組みこんだ例をたくさん見ていますが、これは完全に手段と目的を混同しています。

 なぜなら「地域の連携」は手段であって目的ではないからです。

 地域を守るため、自分たちの住む場所をよりよくするために、連携するのであって、連携をするために何かするのではない。

 何かするために連携するのです。

 私の住む地域は、そういう意味で自主的に地域のイベントを開催し、最近では近所の大人がこどもたちのために山を切り開いて、子どもの遊び場をつくったりしています。 これは、子どもたちに豊かな田舎を残すために地域が協力しあった結果であり、その過程で地域が否応なく連携することになったのです。

 

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(地元の親父の会がつくった森の中のツリーハウス)

(月末に子供たちとともにハロウィンパーティが行われます)

(私も悪魔、としてコスプレ参加)

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(子どもを歩けるようにウッドチップをしきました)

(こういうことをしてくれる大人がいると、子どもは嬉しいですよね)

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(近所の河から森へつながる手作りの橋)

(近所の親父の会が制作)

(まるでスタンドスタンドバイミーw)

(ウィズ 大人だけれど、子どもは嬉しいよね)

 

 

 こうした大人たちを見ていると、自分たち若者も何かできないか、と協力しようという気持ちなります。地域の大人たちの愛情を子どもたちが感じるのです。

 地域を守る、地域を愛するという態度と心は上の世代が行動と表せば、必ず下の世代に伝わっていきます。

 今の消防団には、そんな誇りも必要性も感じられず、ただ持ち回りの罰ゲーム感だけが蔓延しています。

 なぜ必要なのか。

 そこが、抜けてただ存続のことだけ考えているから、若者に消防団なんか消えろと言われるのです。

 かつて必要とされていたものもいつかはその必要とされ方が変わる。

 永遠なんてない。

 下の世代が心から地域を愛せるようになるには、上の世代がまず地域を愛するやり方を変えてくれないとな、と思うのでした。

 

10月6日(金)田舎に住む理由~そしてエイリアン4~

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(エイリアン4より:しかしこちらのサイトの映画はレビューではなく感想でさえありません。つまり、見たよ報告笑)

 

【個体の死は種全体からみれば、想定内】 

 飛ばない赤とんぼは目だつ。

 その赤とんぼはアスファルトに横たわっていて、私はあと少しで踏みつぶしそうになった。

 手にとってみると、羽も手足もきちんとくっついている。

「どうしたのよ」

 声をかけてみても、もちろん返事はない。

 しかし、よく見ると全身真っ赤なそのトンボは首の部分がまるでねじを回すように曲がっていた。

 それは通常の可動域を超えており、動かなくなってしまったのはそれが原因のようだった。

「かわいそうに」

 私は、トンボをそっと道路の隅の草の上に置いた。

 持ち帰るわけにはいかないし、埋めてあげる時間もない。

 立ち上がると、ゆるく秋風の吹く曇った空に無数のトンボたちが舞っている。

 そのほとんどがカップルだ。

「お前も一人で死んでいくんだね」

 私は言葉だけは感慨深く、その場を離れた。

 

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(まじまじと見ると、昆虫ってまじでメカですよね)

(しかもこの色彩。かっけええ!!)

 

 これは、今週昼休みに職場の周辺をウォーキングしている時の出来事なのだけれど、周囲が田園地帯のため、いまどき書類が山積みの事務所で一日を過ごす私にとってはいい気分転換になる。

 職場の人間関係は良好で(退屈でもある)、職務の内容は退屈で(だから良好でもある)、時々自分がひどく場違いな場所にいると思うことがある。

 けれど、そうした違和感というのは思い込みの部分も多く、分相応というのが現実的な視点だと思う。

 ただ、現実というのは自分の考え方しだいで、どうにでもなってしまう部分も多いので、そういう思い込み由来の不安定な部分を抜きにすると、この田舎に住んでいることはとても興味深いというか、本能的にここではないと生きていけない気がしている。

 その理由は、田園地帯、というか田舎の風景に死が蔓延しているからだ。

 生物はかならず生まれた以上死ぬ運命にあり、生物は生物を食べることでしか生きられない。

 都会に生きているとそういうことを忘れがちになるし、スーパーで売られている肉の切り身の背後に食料にされるために生まれさせられた大量の悲惨な動物がいると想像できるほど人間は強くも賢くもない。

 

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(虐待といえば、こっちのほうが虐待ともいえる。。哀しい現実)

 

 

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(先日読んだ『サピエンス全史』にも記述のある家畜のつらい人生)

(考えると食べられなくなりますね。ありがたいけれど、一生をこんなスペースですごす養豚たち)

 

 しかし、それこそ事実で、人間は自然の中で生きており、自然というのものは容赦がない。

 赤とんぼの死は、自然界では起こるべくして起こるもので、一個の個体が子孫を残せずに死亡することは、トンボ全体としての「種」としては想定済みだろう。

 だから、あの赤とんぼ一体の死は、赤とんぼの種全体にはほとんどなんの影響も及ぼさない。

 そのことに安心するし、同時に哀しくもある。

 赤とんぼ一体の死の頭上には、生をつないでいく無数のカップルが存在する。

 そう自然の風景を見ていると、私たちの人類も個体としては、その生死にあたふたするものの、種全体としてみれば、それこそどう考えてもなんてことはない。

 人口爆発だというけれど、たぶん人類という種を超えて、生物を作り出した自然という存在からすれば、きっと「行けるとこまで行けばいいさ」というのが本音なんじゃないかと思う。つまり、人類がどうなろうとさほど気にしていない。

 そういう生物学的というか地球視点というか、宇宙的視点に立つと、個体の生死はそれほど重要ではないというような悪魔的な気分になる。

 

 

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 (私はお金があっても、高層ビルには住めないと思います)

(郊外といわず田舎の一軒家がいいです。こんな都会はこわくて、、、渋谷苦手笑)

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(住むなら南フランスです! 生まれ変わったら住みますw)

 

 自然的風景の中で生活をすることは、人工物ばかりに囲まれた都会では感じられないこうしたある程度の達観というか気持ちよさがあり、私はそういう悪魔的な気分のおかげでようやく人間界という場所で生活していける気がする。

 

 ただし、そういう達観した気持ちが私の一部ではあるけれど、最近の一連の流れでは、核攻撃並の打撃が私の本質的にヤワなハートを直撃した。

 それは、動物虐待映画を見てしまったことだ。

 その名も『エイリアン4』

 

【孫虐待映画~エイリアン4~】

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(やっと本題ですw今作のシガニーはまじでかっこいいですw)

 

 『シンゴジラ』で、自衛隊が巨大トカゲを爆撃する「虐待」を避けて、ほっとしたのもつかのま、『パトレイバー3』で巨大水生生物が人間の癌の遺伝子を受け継いで、人間的な肉体に変化したものを、自衛隊が炎で焼き殺して「一瞬虐待」となり、しかしながら、ついにこの「エイリアン4」では、人間リプリーから生まれたエイリアンがついに、「人間に」近づいた容姿になり、生物学的祖母であるリプリーを識別し、甘えるしぐさをし、しかしリプリー生物兵器としての存在でしかない「我が孫を殺害」してしまう『孫虐待→死』のもっとも避けたいシーンを見るは目になってしまった。

 

 なんてことだ!

 ずっと避けてきたのに!

 後悔してもしきれない……

 

 みなさん、何を今さらと思うかもしれませんが、なんとなくエイリアンシリーズを見返しみようと思ったのです。ほんとうになんとなく。

 しかし、ふたを開けたら、悲惨な物語でした。

 御存じエイリアンシリーズは、すべて監督が違うのですが、「エイリアン4」はジャン・ピエール・ジュネ監督。「デリカテッセン」「ロストチルドレン」「アメリ」と、ダークでキュートな映画をとる監督ですが、私はどういうわけかどの作品も内容が思い出せません。

 断片的に、すごい美少女がフラッシュバックするのですが、ストーリーというと……(笑)

 

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(今回の死亡パーティの一員。なんとこの方見たことあると思ったら、CSIラスベガスでずっとウォリック役だった人です(名前言え)ウォリック途中で降板したので、CSIでも突如死んで、ほんとつらかった。。いい役だったのになあ)

 

 

 さて、この「エイリアン4」では、前作で胎児(エイリアン)とともに溶鉱炉に飛び込んだリプリーは死亡。

 その後、科学者たちによって生存時に残されたリプリーの血液から、胎児ごとクローン再生します。今作のリプリーはそうして再生された個体の8番目にあたり、彼女の肉体から生み出されたエイリアンは人類の遺伝子を取り込んで、爬虫類から哺乳類に近づきます。この近づき方が、切ないラストにつながるという仕様。

 エイリアンは、見た目爬虫類なのですが、骨格というか外壁(外骨格)は超合金に近いらしく、血液は強酸。全然そこらへんにいる生物ではないのですが、卵生という見た目に反して原始的な生殖方法です。このあたりが、生物的に賢いけれど、脳は恐竜に近い所以かもしれません

 

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(私はまだジュラシックワールドを見てません。。

(私はまだジュらしくワールドを見てません。しつこい

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(好きな恐竜はラプトル系 機動力に富む、頭脳プレイが好きなのw)

 

 

 このエイリアンの『餌を食いまくり強いという設定』はまさに恐竜であり、相手が恐竜であるかぎり、コミュニケーションも成立せず、人間とエイリアンはやるかやられるかという対立構造でしかとらえられませんでした。

 しかし、今作では、エイリアンが哺乳類的進化を遂げたせいで(おかげで)リプリーという血をわけた人類と生物学的にも近い位置になり、祖母を識別する能力や、祖母に甘えるという仕草まで会得してしまいます。

 しかし、エイリアンは生まれてはならない生物兵器であり、リプリーは自ら我が孫の命を絶つことになる。しかも非情な方法で。

 

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(泣けるシーンです)

 

 

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(反則だ、反則だ、反則だ~!! 中に人入ってるのかな。。人の目だよ。。。)

(表情があるよ!!)

(部屋で飼ったらかわいいだろうな。。散歩するの大変だなあ。散歩されそうだなあ)

 

 

 

 エイリアンがリプリーによってやむを得ず殺害されるシーンでみせる、エイリアンの切なく悲しげで驚愕の表情は、これまでのエイリアンでは描写ができないものでしたが、今回はもう頭がまんま人間の骨格になっており、「表情の創出」が可能です。そうした喜怒哀楽を持った生物は、もはや恐竜のようなマシンのような単純な兵器、脅威ではなく、ある程度のコミュニケーションを成立させてしまう、ペット的な位置に接近します。

 そうなれば、このシーンは親子の今生の別れであり、こんな絶望的な別離を強制した人類の所業に憎悪をおぼえるばかりです!

 まったく!

 そういうわけで、予想外に精神的ダメージをこの映画で負ってしまった私は様々な妄想が脳裏に飛来しました。

 生まれてきた悲しみ。

 生まれさせられた悲しみとしての兵器。

 私は常々自分に対して「生まれてきて申し訳ない。ふがいない」という絶望に近い反省の気持ちと、こうした私をこういう仕様で私の母の肉体を使い、この世に私を送り出した神(ととりあえず呼んでいますが、なんかえらそうで気に食わないやつです)に絶望にちかい憎しみを抱いているので、こうした妄想をもつ以上、兵器のような欠損ととられかねない長所を持って生まれた生物には親近感というか、重い感情移入をしてしまいます!

 

 はあはあ(つい息が荒くなってしまう)

 

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私の神のイメージ。すごい人事異動を発動するうえに、お前はできる、俺はできると思うんだ。いや、まじ行けるって とか平気でスーパーポジティブに無理なミッションを部下に与えてる人。でも悪気ない感じ。やれやれって感じ)

(神、、やっぱむかつくわ(笑))

 

 そういうわけで、この壮大な動物虐待シーンの精神的被ばくをばねにして、創造の世界へ旅立つ糧にしたいと思うのであります、とまとめて深呼吸します

 

 では、いってきま~す。

 やっと、金曜日です。

 

10月5日(木)恋のタイプは遺伝子に刻まれている

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(恋映画 リアリティバイツ:恋人は親友 こういう恋がしたい)

 

【好きなタイプは変わらない】

 一般的には好きになる異性のタイプは年齢とともに変わる、と言うけれど、私はそうは思わない。

 やっぱり、本能的に惹かれるタイプは遺伝子に刻まれていると思う。

 一般的に女性が好きになる男性は、10代、20代、30代、と【変わっていく】と言われているけれど、それは恋愛対象であるか、結婚対象であるか、それともその両方を伴うものなのか、というロックオンの仕方なのではないかと思う。

 私の場合は、20代の頃生活が成り立たない男性を好きになる傾向があり、30代に突入してからもそういう情けない男性を好きになってしまったため、結婚に進むことはできなかった。

 すごく好きな相手だったので、失恋してからは、「生活が安定している人」を好きになろうとしたけれど、これがまったく自分には「合わない」人で、それに我慢することができなかった。

 今でもなんとなく自分の好きなタイプの男性に「生活力がない」が自動挿入されている気がして、ぞっとするけれど、一時期は20代の失恋がトラウマになって、わざとタイプではない男性を好きになろうとしていた。

 この手のタイプてはない人々は、タイプではないとシンプルにくくったところで、上は「生理的嫌悪」で中間は「居酒屋の隣の席で社交辞令程度に話がはずむ」ぐらいで、下は「遊びでならディープキスできる」までぐだぐだなほど幅がある。

 こうした基本的にどうでもいい異性と恋愛、結婚と進むのは、非常に精神的苦痛とともに程度の差はあれ肉体的な苦痛もともなうはずで、どだい無理な話だ。

 それで、思ったのは、恋愛のタイプというか、もうこの際はっきり言ってしまうと性的対象というのは、年齢に関係なく決まっているのではないかという話だ

 何をいまさらというつっこみもかなりあると思うけれど、たぶんこれが事実なのだと思う。

 なら、どんなタイプがお前はすきなのか、と言われると、私の場合はとにかく「声」なのだ。

 

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(私の好きな声優:山路和弘さん とにかくなんでも出てるので、大御所様です)

(声の奥底に色気があって、デフォルトが悪役なので、善人やると悶え死ぬ)

 

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(好きな声優さん:藤原啓治さん 山路さんより声のタイプは優しくて親しみやすい色気笑)

(藤原さんの声が素敵すぎて、当時声優業をしていた彼と喧嘩になりかけたという笑)

 

 声優ファンでも音楽ファンでもないのだけれど、とにかくあるタイプの声に理性がふっとぶくらいの魅力を感じてしまう。

 変な例をあげると、職場で内線電話をしていて、電話線の向こう側の声に惚れて萌える。

 うちの組織は200人ちょいなのだが、その中で男性が半数だとして、100人。

 たった、一人だけ私好みの声をした上司がいて、その上司から電話がかかってくると、(たいがい私の出した書類が間違っていて、訂正印を持ってこいという督促)悶え死ぬ。上司が電話をかけてくるときはきまって、スムーズにいかない書類の訂正、修正であり、その場で「ななえは死にましたけど」と他人のふりをしたいくらいなのだが、上司の声があまりにしぶくていぶし銀のため、声聞きたさに、切ることができない。

 

 話は変わるが、声が似ていると、骨格まで似ているということがよくある。親子や兄弟姉妹の声が似ているのも、骨格が遺伝しているからだが、赤の他人でも声が似ていると顔立ちがよく似ているということもよくあるらしい。

 これは、たしかに理にかなっている。

 実は、私自身認めたくないのだが、20代の時に恋をした男性というのが二人いるのだが、まったくの赤の他人だが、顔も声もよく似ているのだ。

 

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(私の本能的男性のタイプの原型はリバーフェニックスだと思われます)

 

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(本能的タイプ2 :シャイロ・フェルナンデス)

死霊のはらわた、ザ・イースト 一目ぼれするほど色気のある俳優です)

(シャイロ君もリバーが好きなようです。不思議なイッチですな)

 

 

 これは失恋をした相手のクローンをまた好きになるようなもので、自分としてもあまりの成長のなさにがっくりくる。

 がっくりくるのだが、このタイプにとことん弱いということもある。

 

 そういうわけで、ここ何年もそうした本能的な恋をしていないのだけれど、そういう人に遭ってしまうと、まさに本能のタガが外れてしまうので自分がどうなってしまうのか、自分でもこわい部分はある。

 遺伝子に刻まれた萌えタイプに出会えば、私は否応なく恋に落ちてしまうし、不思議なことにそうした相手も私に落ちてくれる

 

 つまり、ここ数年は私は誰にも落ちてないし、誰も私に落ちてこない。

 落ちない人生は平穏で、萌え以外にゆるく生ぬるい理性的な「恋」をする期間であり、私はそういう時期も嫌いではない。

 むしろ、失楽園ような恋をしないときのほうが、自分でいられる気がするものだ。

 

 しかし、失敗しても地獄に落ちても、恋をすることはその地獄の何倍も

 生きていてよかったという実感が味わえる。

 恋をしている人たち、うらやましいのである。

10月3日(火)健康食品は宗教で、栄養ドリンクは薬物(我が家はパイロゲン教)

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(万能薬は、まさに毒にもなるを地でいく飲み物を紹介します)

 

 

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(本日ご紹介するのは、こちらの飲み物です。。我が家で長年愛飲してますw 母が)

 

 【健康食品といういま流行りの宗教】

 我が家では、パイロゲンという健康飲料を飲んでいる。

 というか、飲んでいるのは母だけだ。

 このドリンクは、我が家では宗教的位置を占めており、とくに母にとっては、その宗教的自覚がない程度に完全に彼女の中で信仰と化している

 このパイロゲンを購入するためには、会員にならなければならない。

 どこかで聞いたシステムによって入手が困難であり、たとえ会員になったとしても、1リットル1800円というかわいくない価格設定のため、こちらのほうで入手困難になる。

 化粧品の美容液が100㎖で1万円~2万円ほどすることを考えれば、なんちゃない価格だけれど、健康飲料の代表格である牛乳と比べるとべらぼうに高い。

 で、このパイロゲンというドリンクは非常に万能薬的な効果を持つ飲料で、2時間に50㎖ずつ飲むと、ハイテンションが続く。お酒の前、会議の前、徹夜の前にほんの一口の飲むだけで、作業効率が上がる上に、なぜか声が大きくなり、必要以上にハイテンションになり、周囲を圧倒することさえごくナチュラルにできる。

 私はこれをドーピングと呼んでおり、ほぼ使わない手だが、たまのプレゼンや、たまのパーティや、たまの旅行のときなどに影に隠れてがぶ飲みする。

 やっかいなことは、これが飲料だけでなく、目薬、傷口消毒、さらには入浴剤としても使えることだ。

 

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(お風呂にパイロゲンを50㎖入れると、なんと温泉効果w あったまるため、毎日

 つかると、温泉なんか全然行きたくなくなります笑、、って依存症やん。

 でも、すごい効果で、私はパイロゲンはこっそり飲まずにお風呂に入れてます)

 

 

 母は、かつて大手ビール会社の営業職であり、その暴飲暴食ぶりを永続させるためにパイロゲンのお世話になっていたが、そもそもこの飲み物は体育会系の飲み物なのだ。

 パイロゲンの成分の大部分は酢であり、悪いものは入ってはいない。逆にいうと、いいものしか入っていないから、その分高価であり、効果が絶大なのかもしれない。

 言ってみれば、純度の高いヘロインだ。

 しかし、これは精神的肉体的ダウナーな人間が飲むにはいいものだけれど、例えば私のような見た目はダウナーだけれど、隠れオマツリキャラというか、潜在的に逆上しやすい人間には禁忌的飲み物だと思う。

 つまり、持ち前の逆上しやすい性質がさらにドーピングされて、テンションマックスになり、かつドリンクを停止したときの落差がひどすぎるという。つまり、ヤク切れのときに、奈落の底までテンションが落込み、パーフォマンスがとことんミニマム化してしまうのだ。

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(栄養ドリンクはすべておかしな味がするので、飲めません)

 

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(なぜか、こいつらも上とおんなじ味ですね)

(同僚が毎日これを飲んで、よくぶっ倒れていた)

(バンドマンをしていたからでしょうか)

(うちの親父もバンドマンですけど、彼ら恒常的に寝不足ですよね)

 

 こんなことは、10代で栄養ドリンクの飲みすぎで卒倒したことがある私としては、今更感マックスなのだが、まさか健康食品でそんなことが起きるとは夢にも思わず、わりと長い間飲んでは、その都度倒れ込むことがあり、そして気がついたのだ。

 私にドーピングは向かないと

 ごくたまのイベントの時には手を出していいが、基本的に私には禁忌だ。

 

【体の声を聞くと、栄養ドリンクは毒だってわかるよw BY天使】

 

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(天使です。。誰がなんというと、天使です)

 

 

 それは、実は体の声を聞くようになると、自然にわかることだ。

 よく寝て、身体にいいものを食べて、運動をしていると、自分の体調の波がつかめるようになる。そもそもこれができていないと、無理をしすぎたり、無理をしなさすぎたりして、人生が退屈になってしまうのだが、普段から自分の体の状態を気にかけていると、身体の変化に気がつきやすくなる。

 そうなると、例えば霊感のように自分の心身にマッチングしない場所に行くと、テンションというか体温そのものが下がる。

 たとえば、私の場合はコンビニのお弁当売り場がそうで、あそこは誰がなんと言おうと添加物のふりかけでできた人間のための餌場であり、私はその場所に近づくだけで体温が二度ぐらい下がるような気がする。ついでに言うと、ファミレスの食事もたいがいは無理で、看板を見るだけでテンションが下がる。先日の回転ずしのすしネタは漂白剤の匂いがしたし、それがフラッシュバックしてお店の看板だけで体温が下がる。

そういうわけで、逆のパターンでパイロゲンも自然に避けるようになった。

つまり、なんというか私はパイロゲンが怖いのだ

キメてる(薬を打つみたいに言うな)間はいいのだが、きれると自分がどうしようもなくなることが体に刻み込まれてしまったのか、冷蔵庫でやつの姿を見かけても、どうても手が伸びない。

 つまり、身体がドーピングするのを拒否っているのだ。

 

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(映画【沈黙」よりリーアム・ニーソン。フェレイラ役 棄教するの図)

 

 しかし、母はそうではない。

 なんと言ってもパイロゲン教なので、すでに私がパイロゲン教を棄教してしまったにもかかわらず、母は私が具合が悪そうにしていると

パイロゲン飲みなさい」

 と、言い、怪我をすると、

パイロゲンをつけなさい」

 と言い、食欲がないと、

パイロゲンをごくごくしなさい」

 と言い、会議があれば、パーティがあれば、飲み会があれば、

 以下略というわけだ。

 恐るべし、信仰の力ではないか。

 

【信仰者には何をいっても無駄である】 

 母は、それだけパイロゲンでなんとかなると思っているのだが、こういう信仰者には何を言っても無駄なので、私は争わないことにしている。

 これは理屈ではなく、信仰の問題だからだ。

 信仰をする人というのは、信仰せずにはいられないだけの、弱さがあり、また人にはわからない過酷な経験をした人間ではないかと私は思っている。

 そもそも、母がパイロゲン教を授かったのは、母の姉であり、私にとっては伯母にあたる人なのだが、この伯母が母に輪をかけてパイロゲン教なのである。

 というか、伯母の場合はむしろ、パイロゲン教活動家だ。

 つまり、パイロゲンの生みの親である㈱会社赤塚の中でも活動家としての顔を持ち、様々なアクティビティに顔を出し、今や親族だけでなく救済を求める人々に広く布教をしているほどなのである。

 

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(ザビコ。。志半ばで病没。。)

 

 母方の家系はどういうわけか、宗教的というか信仰を持つ人間が多く、私もその血を受け継ぎ、なにかに多少すがることで、人間を強く保っているところがある。

 ある意味、オカルトチックであり、伯母は例によって霊能者的な力を持っており、母はその自覚がないが、憑依体質で、私もコンビニの弁当売り場で体温がさがるくらいなので(それは違うと思うぞ)、自殺スポットや廃屋などに行くと、ほぼ具合が悪くなったり、伯母に比べると多少弱まってはいるが、そのケがある。

 つまり、目に見えないものに対するアンテナを持つシャーマン的体質が根本にあり、そうした人間が必須アイテムとして命の水的なものを常に持っているというのは、不思議にしっくりくる。

 伯母がパイロゲンに顎までつかることになった理由は、義母の自宅介護の地獄の日々がきっかけで、この一歩も外出できない日々が彼女にパイロゲンとの邂逅を容易ならざるものにした。

 パイロゲンは、少量ずつ飲むことで、ほぼ二日徹夜することができる。

 私は普段使いでも十分ドーピングの後遺症に悩まされているので、伯母のいう恐ろしい使い方はしていないのだが、伯母は過酷な介護から荒業を使うことが日常となっていた。さらに思い切ったことを言ってしまうと、伯母は生物学的にパイロゲンと近い成分でできているのかもしれない。パイロゲンを飲んでいるかぎり、彼女は無敵なのだ。

 つまり、疲れない。

 こうなると、妖怪の類なので、私は伯母のことが大好きだが、ことパイロゲンのことになると、何をいってももはや理性の範疇を軽く吹っ飛ばしているので、ほぼまともな会話にならない。

 

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(ん? 妖怪? 九尾の狐じゃなくて、犬なんだよね。。大神w超かわゆい神曲多いゲーム。 妖怪じゃなくて、このわんこって、神様?)

 

 

 つまり、私が何を言ってもその解答は

「ななちゃん、それはね、パイロゲン(以下略)」

 となるからだ。

 笑えるではないか。

 しかし、同時に笑えないのである。

 人が信仰に至る道というのは、もの悲しい歴史がつきまとうものだ。

 

【人が信仰にいたる哀しい道のり】

 かくいう私も10代で栄養ドリンクをがぶ飲みしなければならない状況を味わっているし、そこから導きだして、いわゆる万能薬を飲み続け心身を酷使しなければならない人々にとって、パイロゲンにまつわる栄養ドリンクは手放せないものなのだろう。

 それは、わかる。

 人はなにかにすがるとき、そこには哀しく過酷な何かがある。

 だから、私は人の信仰、それがアイドルであれ、ブランド品あれ、ゲームであれ、ペットであれ、とやかく言う必要はないと思ってはいる。

 けれど、それが信仰でなく依存になったときは、いかがなものかと思っている。

 我が家ではパイロゲンという健康ドリンクが信仰の位置に属し、ときどき依存の域まで高まることがあるが、私は距離をとっている分だけ、それほど高価ではない栄養ドリンクを毎日のように飲むことは、命を縮めることをしているようにしか見えない。

 この部分はまさにパイロゲンが宗教であり、多宗教(ほかの栄養ドリンクね)に不寛容というか認めないという思考に似ているのだが、そうではなく、ただの安い栄養ドリンクには栄養ではなくただのドーピングの効果しかなく命を縮める効果しかないと思っていることに基づく(パイロゲンは、飲んでいると胃調の働きがよくなるので、お腹がすいて、太ってしまうという効果がある。というか、適正体重に近づいた結果、太るということが多い)

 だから、いい年をして栄養ドリンクを毎日飲んでいる画像を張り付けている人を見ると、どういう心理なのだろうと思う。

 本当に仕事大変なのだろうか。

 それとも、ただのネタなのだろうか。

 どちらにしても、そもそも毎日栄養ドリンクを飲み続けること自体が、その人の依存体質を表しているし、逆に本気で忙しくて飲んでいたとしても、むしろそんなものを飲んで効率悪く仕事するよりも、仕事の取組み方を考えたほうがよくないすか、とも思ったり、とはいえ、先ほどの伯母の悲劇的な歴史が語るように恒常的に多忙な職場はあるだろうし、この手のインスタを見てもなんとも言えないのだ。

 いえることは、健康を保つためには当然のことながら質の高い食事と睡眠と運動にまさるものはなく、そのほかのものはすべてこの三つの代用品でしかないということだ。

 手軽で安い食事に栄養はなく、睡眠を削った仕事は能率が悪く、やせるサプリメントにはなにかよからぬものか、薄力粉か中力粉か、おそらく適当なものが入っている。

 健康はすべての土台であり、その健康は適当に簡単に手に入るものではない。

 それには毎日の節制とその節制を貫く心の優先順位をつける決断が必要で、それがままならないうちは、右往左往するばかりだ。

 健康はそもそも自分自身のためであるし、そんな自分と人生をともの歩む家族や仕事仲間のためでもある。

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(カフェインさえ飲めないので、基本ルイボスティーを飲んでます笑)

(こちらが、おすすめのルピシアのピーチメルバフレーバーティー

(がぶ飲みしても、水のように安心。カフェインレスで物足りない味(おい)

(っていうか、今回のブログの要点はおまえが健康食品さえ続けられないほど胃弱っていうことなんじゃ……)

 

 

10月2日(月)散歩と旅のすすめ(日常をもっと愛するために)

 

 

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(夜散歩すると、こんな風景が見えます(心の中に)

 (宇都宮は田舎ですが、さすがにこんなには、、、笑)

 

【歩けばなんとなるという考えって……】

 気分が重くなる前に歩けばなんとかなると考えている。

 生理前はとくにそうで、痛みは薬で抑えられても、なんとなく人生のすべてが前に向かない気がする。

 それも、とことん。 

 永遠に。

 集中もできないし、思考は人生を終わらせる方法ばかり考えてしまって、らちがないので、そういうときは歩くことにしている。

 歩くのはいい。

 

 歩行禅という歩きながら瞑想するということもあるが、そんなことを考えずにただ歩くだけでも気持ちがよくなる。

 私が歩くのは、朝、昼、夕方、深夜、時間を問わないけれど、とくに夜歩くのが好きだ。

 田舎なので、空が半円形に見える。

 

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(いや、だから宇都宮はこんなに見えんから(笑))

 

 

 長野や北海道のように、もしくは関東平野が見渡せるような真っ平な場所ではないけれど、山並みやビルに遮られることなく、それなりの半円形の空が見渡せる。

 その空を見ながら歩いていると、「どうにかなる気がしてくる」

 頭上には星々が広がっており、それらを見ると、数百年後や数百年前のことを考えたり、具体的には縄文時代のことを考えたりして、不思議な気持ちになる。

 必死に考えても、仕方ないよ、と気持ちがすとんと落ちていくような気になる。

 そういうわけで、そんなポジティブな諦観の念は空を見ているだけでは、たどり着けない。

 やっぱり、歩かないと

 

【散歩の効果ってあると思うんだ……】

 

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(近所のゴルフ場をつきぬける山道。がんがん歩いています)

 

 散歩はその意味で、家や事務所という自分の縛られた空間のごく近くでも、心理的にその「物理的拘束」から引っぺがしてくれる効果がある。

 平たく言うと、それがリフレッシュというやつで、時間がなかったり、適度な気分転換に散歩はすごくいい。

 私は音楽も聴かずに、ぼーっと歩くのが一番すきで、ラジオやクラシックやJポップや朗読を聞きながら歩いたり、必死にランニングする場合は、それは体力づくりになってしまう。ランニングやウォーキングはどこか脳を使い、かなり交感神経に作用するので、執筆や仕事が重なっているときに本気ウォー&ランをすると、吐いてしまうことがわかった。

 なので、私の場合はがんばっているときは、何もせずひたすらぼーっと歩く。

 

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(山道をあるくと、ついどんぐり拾ってしまう。木の実がかわいくて好きだけd、虫わくよね。恐怖!!)

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(ゴルフ場で拾ったどんぐり。。爪の色、どどめ色だよ?)

 

 一人で歩いていると、色々な事が浮かんで来るけれど、一キロを過ぎた地点で、「もうどうにもでなるし、どうにもならんよ」という例の諦め気分がきて、なるようになるという実践的な気分になる。

 ここで辞めるのがもったいないので、もう少し歩いてみると、この実践的な気分の先の具体的なアクションが浮かんで来る。

 ここで辞めるのが得策で、この先を続けると、実は変な脳内麻薬が出ているらしく、やたらハイテンションになって、本気でランニングをしたり、全力走を取り入れて、吐くということになったりする。

 

 散歩はひとりでしてもいいけれど、家族や友人としても、ちょっとした非日常が手軽に味わえる。

 昼休みに同僚と、休日に母や妹と。

 家や事務所から離れて景色をぼーっと体感しながらべらべらしゃべっていると、いつもとは違う話ができる。

 散歩はいつもとはちがったつっこんだ会話も可能にしてくれるので、散歩ができる関係は仲良くなれる。

 そういえば、この散歩を教えてくれたのは大学時代の恋仲だった男友達で、彼はいつも早稲田の町を喫茶店やバーでおしゃべりするよりも、外を歩きたがった。

 東京は否応なく歩かねばならないところだけれど、彼と下町を歩いたあの頃が、よく考えれば私の散歩の根っこになっているのかもしれない。

 そういうわけで、私は今も、近所を徘徊している。

 散歩にはリフレッシュの効果があると思うけれど、それは距離とも関係していると思う。

 

【体の距離はこころの距離(なんだこのエロくてださいタイトルは)】

 物理的な距離は、心理的な距離とそのままつながっているので、気持ちを変えたければ、できるだけ遠くに行くというのもいい。

 本当は文化さえ変わってしまう海外に行ければいいのだけれど、言語やそれこそ文化のせいで、逆に適応にストレスがかかりすぎると、リフレッシュどころか、生まれ変わってしまうかもしれないので、なにかに集中しているときには逆効果になる。

 そういうわけで、先日国内でそれなりに遠い場所ということで北海道の利尻島に行ってきた。

 羽田から稚内まで飛行機で二時間。稚内からフェリーで二時間。

 稚内からは樺太が見えるし、フェリーで移動することがよかった。

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稚内市宗谷岬 日本の……外国?でもこんな外国あるかなあ?)

 

 これで、本土からさらに「離れてしまった」ことで、もう「本土で何がおきても知らねえよ」という言葉は悪いが、ふっきれた気分になることができた。

 この旅ではなにもせず、ただ気分転換をするために来たので、一日目の夕方に来て、三日目の朝イチで島から出る弾丸ツアーの予定だった。

 利尻島は観るべき観光資源はそれほどあるわけではないのだ。

 むしろ、観光資源などないほうが何もせずに過ごせるので、もってこいなのだが、この弾丸ツアーは結局とん挫することになる。

 なんと利子島に台風が直撃したのだ。

 というか、私の旅行に合わせて日本を台風が直撃した。

 よくあることだ。

 そういうわけで、利尻島到着の翌日は完全なる暴風域に入り、二日目の午前中はどこにもでられず、高い可能性で、明日の飛行機もフェリーも欠航になりかねない様子だった。

 こうなれば、もうどうしようもない。

 私は利尻島で唯一ゆっくりしようと思っていた日の午前中3時間をホテルの室内でお昼寝をした。

 疲れていたせいで、ぐっすり眠ることができて、最高だった。

 お昼にホテルが配給してくれたおにぎりを食べると、元気になり、ますます強まる暴風をものともせず、ホテルの自室で読書ざんまいにふけり、もう最高としかいいようのないバケーションをすごした。

 そして、翌日はすっかり体調もととのい、強風の残る島を観光し、午後はお昼ねと読書をして、この世の春を謳歌した。

 まさに、最高に何もせずに過ごすことがきでた。

 そして、滞在中はホテルのおもてなしに肩までどっぷりとつかり、一日遅れで仕事に復帰したときには、心身ともに生き返った気分になっていた。

 この旅行は、意図せず長期滞在になってしまったが、よく考えなくても利尻島くんだりまできて、一日で帰宅するのはもったいないにもほどがあった。

 距離が遠ければ、心と体がそれにおいつくのに、一日はかかると見たほうがいい。

 大げさに言えば、一日で国境近くまで移動したのであれば、一日でその物理的距離を魂が追いかけてくるのを待ったほうがいいのだ。なにもせずに。

 実際、私はあの台風のおかげで、利尻島第一日目の午前中に昼寝をすることで、私が寝ている間に栃木から利尻島まで魂が追いかけてきて、やっと心身がドッキングしたような気がするのだ。

 それから、本当のリフレッシュが始まった、気がする。

 だから、旅行は弾丸は旅行の効果を半減させる。

 そういうわけで、旅先ではまじでなにもしない一日というのをつくることにしたのだ。

 もともと予定をいれない休日が大好きなのだ。

 そんなわけで、私はまた旅に行こうと思っている。

 旅をするのは家と仕事が好きだからで、家と仕事を好きでいるだめに旅をするようなものだと思う。

 変なたとえだけれど、飽きっぽくて忍耐がなくいつでも新しさを感じていたいから、夫がいるのに、いるからこそ、外の恋人と火遊び(表現が古臭いうえに親父くさい)するようなものだ。(ってなにがものだよ、、、笑)

 

 とはいえ、旅もうわべだけの恋人も楽しい過ぎ去っていくはかない光のようで、その光が、不思議なことに平凡で地味に積み上げてきた日常をより輝かせるものだと思う。

9月28日(木)【悲報】回転ずしがオフィスで残業のつづきだった件

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(後輩に魚べいという回転ずしに連れて行ってもらいました。。

しかし、これはオフィスでは、、、)

 

 

 

 

【外食産業から撤退した私の人生】

 今年から、職場の後輩同士を半ば強制的に仲よくさせようと、「若手を囲む会~略してワカイ(若い・和解)」なるものを企画し、その第1回は、私の行きつけのフレンチにしました。

 しかし、私の胃腸はもはやクリーミ―なソースやオイリーなドレッシングにはついていけず、外食産業かた撤退して久しいのです。

 先週行った利尻島でも毎食昆布だしのお茶漬けを5杯ずつたべれば、それでいいというような仙人というか、じいさんというかそういう人になってしまい、枯れっかれな食事に萌えるわけです。

 しかし、まさかワカイの主要メンバーが20代後半の女子である以上、私の萌えである精進料理・粗食のふきっ晒しの世界に連れて行くことかなわず、私が若くてまだミーハーな心を宿していた過去にすがり、第1回を開催したわけです。

 しかし、現実の私は、自宅でとれる野菜に鰹節をまぶして、外食する分は少し高価な有機卵を買い、お肉やお魚も少しでいいから老舗で鮮度の良い食材を買おうなんていう、年寄のような食生活を送っています。

 そういうわけで、外食産業が掲げる、安くて、うまい、もしくはその対極の高くても、こだわり素材には、魅力を感じず、いかなるお店にもそれほど行きたい気持ちがない私、まして回転ずしなどここ数年は足を運んだことさえなかったのです。

 しかし、回転ずしはいまや回転していないということを風の噂で小耳にはさみ、しかも注文はオールタッチパネルで、店員は不在。

 かつその名称の元ネタになっている回転ずしは今や回転さえしておらず、新幹線で「シャー」っとくるらしいではないですか。

 

【在来線は廃線、もはや、回転ずしは回転していなかった

(なにをいまさら)】 

 そんなわけで、後輩にもはや回転していないお寿司屋さんに連れて行ってもらってきたのでした。

 

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 異世界でした。

 まず、照明がレストランにあるまじき、オフィス並の蛍光灯。

 入り口で、これにくらくらしてきてしまったのですが、入り口近くの席は一人飯用のため、ずらっとならんだモニターの前にワイシャツ姿のリーマンがちらほら座っているあたり、ツイッターで見た通り、残業オフィスかという佇まい。

 54番という札を渡され、後輩についていくとそこは空席の最後列でした。

 つまり、53番関まではファミリーやらカップルなどで埋まっており、私たちは機械的に空席の最後列に配置されたことになります。

 席はボックス席で奥の席に新幹線のラインが上と下に走っていました。

 その路線を、ものすごい勢いで、新幹線やスポーツカー仕様のトレンチが暴走しており、そこに回転ずしの皿がちょこんと乗っている。

 暴走トレイントレンチはオーダー席まで直行し、そこで皿を客がとると、また厨房に帰っていくという仕様。

 

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(こちらが、暴走トレインです)

 

 常にシャー、シャーという走行音がしている上に、料理が来たらタッチパネルで返答をしないと皿を置いた新幹線トレンチは厨房に戻らない。

 そういうわけで、常時、落ち着かないために会話なんていうものはできない。

 しかも、もちろん安い値段なのでおいしさに関しては期待してはいけない。

 でも、それはわかっているけれど、問題はいくら食べてもお腹がいっぱいにならなかったことです。

 なぜ満腹感を感じないかというと、つまり機械で作った料理には人の気が入ってないからなのです。

 こんなことを書くと、宗教っぽいと言われるかもしれませんが、まじで簡単というか適当につくられた食事(いや、もう餌(えさ)と言ってしまおう)は、物理的には「満腹」に近い状態になっても「満足」とは何光年も隔たっているのです。

 というか、私はこの新幹線寿司では、まったく食事的満足感は得られませんでした。

 かわゆい後輩に連れていてもらい、そのことはとても楽しい出来事でしたが、食事の風景としてみると、まったく地獄のような雰囲気でした。

 料理の注文をしてからもいらぬルーレットボタンの停止をしなければならなかったり、新幹線を厨房に戻すためにボタンを押したり、常にタッチパネルを気にしてなければならないこと、照明が明るすぎて、なぜ落ち着かない気持ちになることなどなど。

 もう、精神的年寄にはついていけませんや笑

 食事って、もっとゆったりした雰囲気で味覚や会話を楽しむものだと思うのです。

 なので、初体験がラストになりそうです。

 

 

 

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 でもそんなこと言っておきながら、サイドメニューの味噌ラーメンはおいしかったという。笑

 後輩の言うとおり、味噌ラーメンだけは秀逸!!の優しくなつかしいフードコートの味なのでした。

 私は好きになっちゃいました(笑)

 

 

9月26日(火)私の骨は海に撒いてほしいの ~100年前の貞子の影響~

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(散骨するなら、太平洋でなく、近所の中禅寺湖がいいなと思います笑 犯罪?)

 

「私の骨は海にまいてほしいな」

 朝食の席で母が言った。

「うん、やっぱりそれがいいな」

 母は箸を置くと、窓の外の畑を見た。

 庭木に差し込む朝日はまだまだ強いが、大気には秋の気配が立ち込め、金木犀独特の強い香りが立ちこめている。

 私はまだ半分以上も残った目玉焼きと豆腐とわかめの味噌汁を見て、一気に食欲が失せた

 そのとき、母の膝の上に一冊の文庫本があることに気がついた。

 沢村貞子の「私の台所」だった。

 それは私が母に頼まれてアマゾンで大人買いした山村貞子氏の著作のうちの一冊で、ここのところ母は貞子の著作をむさぼるように読んでいる。

「どうせ影響されたんだろう」

と、思い、私は無言のままぬるい味噌汁に手を伸ばした。

 

【貞子は貞子でも】

 

 

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(今回の話題は山村貞子ではなく……)

 

 

 

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沢村貞子さんです)

 

 

 沢村貞子。(以下呼び捨てします)

 昭和の女優で、1996年に87歳で死去。

 年代で言えば、今年63歳になる母の祖母、私にとっては曾祖母にあたる世代だ。

 沢村貞子は半世紀軽く超える昭和という時代に、数えきれないほどの映画やドラマに出演した。

 名わき役として活躍したらしいのだが、しかし、私には貞子の出演作どれひとつとっても観たことがなく、唯一1949年の「女殺し油の地獄」は観ていたのかもかもしれない。

 「かもしれない」というのは、私の記憶が定かではなく、大学の演劇の授業で近松心中ものの白黒の映画を見たことがあり、これがそうだったかもしれないなあ、と思っているだけなので確証はない。

 貞子はエッセイストでもあり、彼女は夫のために三食かかさずに作った食事について細かくレシピに落とし、それについてこれまた数々の料理エッセイを出版している。

 貞子は1908年生まれであり、私は個人的にこの世代を「百年前」と読んでいる。

 ぱっと思いつくのが

 

 幸田文(1904年生まれ 幸田露伴の娘でエッセイスト)

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幸田文露伴に家事を徹底的に仕込まれた人で、それについてエッセイを山ほど書いてます)

 

 山本周五郎1903年生まれ作家)

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(周五郎。。実はすっごい好きで、よんでは号泣してます)

 

 宮崎市定(1901年生まれ歴史学者

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(いちじいと、個人的に読んでる。司馬遼太郎の師匠各ですかね。

 全集買うぐらい私は好きですw)

 

 

 

 

 全て文学関係者というのが私の狭い了見なのだが、彼らの思想というか書かれた文書を見ると、さすがに「100年前」に文壇に名を連ねた人々だけあって、つきぬけた思想や確固たる作家性を持った大御所という感じがする。

 私にとって曾祖父母にあたるこの「100年前」は、祖父母世代の生き方や考え方がまさに隔世の感とジェネレーションギャップで逆説的に両親世代よりずっとなごやかに受け入れらやすいのに対して、もう時代が違いすぎて、すでに歴史と化した時空に屹立する火星の大山脈のような存在だ

 もうちょっと具体的に言うと、「100年前」というのは、祖父母世代の人間が「何いってるのかわからん」ときにしぶしぶお勉強のためにひも解く「歴史」のようなもので、はじめからこの100年前の仙人の境地に分け入っていくことは「文学オタク」の私でもまれなことで、偶然に仙人と遭遇し、「ちょっと話きいてみるか」と思ったとしても、普通に生きていて、はじめから仙人の住処に分け入ることはなかなかない。

 100年という時代は、その間に積み重ねられた歴史と集積された雑音によって、多くの場合遮断されてしまっているものだと思う。

 しかし、母は私よりも四半世紀(25年)ほど、長く生きているため、私にとっての100年が75年に縮まっている。

 これは大きい。一世代にあたるからだ。

 

 沢村貞子という昭和の女優の思想や生き方は、母にとっては祖母のように身近で、肌感覚が感じられるぎりぎりの世代だろう。

 さらにミクロな話として、貞子の思想が今の母にぴんと来てしまったということなのだろう。

 で、私がそういう世代と思想における考察をぐだぐだしていると、母は膝の上にある文庫を取り上げていった。

 私は内心、やっぱりなと思った。

沢村貞子さんはご主人との間に、子どもがなくてね」

 母がおもむろに言った。

 それはまるで親戚の話をするような口調だったが、私は「子どもがなくてね」というフレーズにつばを飲み込んだ。

 なるほど。

 

 つまり、

 子どもがない→

 家を継ぐ人がいない→

 墓を守る人もいない→

 墓はいらない→

 散骨する

 

 そういうことか、私は目玉焼きを頬張りながら思考した。

沢村貞子は海にご主人の骨と一緒に散骨したらしいのよね」

「で、自分も散骨したいと」

 母が私を見た。

だって、ななちゃんがこのままずっとひとりだったら、お墓なんかかえって邪魔じゃないの

 私は返事ができなかった。

 

【お墓と生きている人間の関係】

 我が家のお墓は自宅から300メートルほど先の曹洞宗のお寺にある。

それこそ我が家は曽祖父母の時代からの墓がそこにあったが、実のところ祖母が父という連れ子を持ってこの家にやってきたのが半世紀ほど前で、つまるところ、その墓に眠る人々は祖母以降の私を含める世代にはなんの血縁関係もない人々なのだ。

 そういう血の断絶のあることを私は中学生になってはじめて知ったのだが、とはいえ私の実家はここ以外にないわけで、祖母が毎朝、自宅の仏壇に手を合わせ、水とお茶を変えて、月命日といえば、足を引きずりながら墓の草刈りをする姿を見て、そこがいつか(このまま嫁にいかなければ)自分が眠る場所だとなんとなく思っていた。

 その感覚は高校卒業後に大学進学のために上京し、そのまま就職、結婚をした二つ下の妹よりも、ずっと実感として私の中にあった。

 家族には不思議なもので、その家族の中に必要以上に一族というものに対してアイデンティティやよりどころや親近感を感じ、それを大事にしたいと思う者がいる。

 翻って血縁関係自体を飛び越えて外に出ていきたいという者もいるわけだが、こういう自分がそだった一族へのコミットは、長女長男、次男次女という生まれの順は関係ないが、一般的には長女長男がその家系にコミットして継続する役割を担うことが多い。

 

 かくいう私にもその「ケ」があって、なんとなく私がこの家をなんとかしなくてはならない気がしてはいた。

 両親の墓のことなど様々な理由から考えたくもなかったが、老境に至る人間と暮らすことは、必然的に老境に近い考えに触れることを意味する。

 私が実家を出ない理由の一つに、私の夢見がちな性質を現実、地方の閉鎖的な価値観に置くことでバランスをとるということがあって、両親と同居することは、否が応でも現実をつきつけられることであり、それは不愉快なことであっても、いずれひきうけなくてはならないと私が思っているからで、それを今母につきつけられたのだった。

 

 母が散骨したがったいる。

 私は、返事ができなかった。

 それは、私個人は、お墓を維持していきたいと思っていたからだ。

 それは先祖のためではなく、生き残る私自身のためだった。

 なんだかんだ、自分がここにいるルーツはときに、人間が生きる上でとても大事なものであり、自分を支えてくれるものだと思う。

 自分の前の世代があり、先祖がいたからこそ自分がいるという感覚は、実は墓という物体がなければ、簡単に失われてしまうものなんじゃないかと私は思うのだ。

 私はつらくなったとき(たいがい、人生はやりきれないと思うことも多いのだけど)先祖のこととか、数えきれないほど生まれて死んでいった大事な猫たちのことを思い出して、もうちょっとがんばろう、と思う。

 それは、墓とは関係ないことのようだが、私は墓があるという生活を35年も続けてしまい、散骨、しかもそれが海(栃木は海なし県だ)という得たいの知れない異世界に親の骨を巻くなんて、ありえないと思ってしまったのだ。

 

 

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(こちらが貞子が散骨した相模湾です。私には異世界です。。遠いし、海ってものが……湖ならわかる。。中禅寺湖とか(笑))

 

 

 

 でも、このままいけば、現実的に考えても墓など持ったら維持できなくなることは目に見えているし、無縁仏のようになってしまえば、逆に色々哀しい気もする。

 自分が死んだあと、あらゆる物質は誰が維持するのか。

 それは墓にかぎらず、家屋や庭も同様で、所有物は死後の世界には持っていけない。

 先のことを考えると色々嫌になるのは、墓を維持するため、家屋を維持するため、庭を維持するために結婚しなければならない気がしてくるということで、それはかつては意味をもち、今も意味を持つものだけれど、私は目的としての結婚はやっぱり考えられない。

 だから、私もそのときはあいまいに答えた。

「お墓のことはもうちょっと考えようよ。もしかして私が結婚するかもしれないし」

 母は文庫本を置くと言った

「そうね、ななちゃん結婚するかもしれないしね」

「……」

 

 そういうわけで、親と暮らすということは日々こうした圧力をかけられるということを意味する。

 しかし、この圧力は人生の現実をつきつけらえるという程度のことであり、実のところ、あたりまえのことだ。

 私は心のどこから、親の意見の一部を大事なものとしてめんどうくさいけれど、抱えていきたいと思っている。

 しかし、抱えきれなくなるとこういうことを考える。

 200年後のことだ。

 200年後、きっと誰も私のことなんか覚えていない。

 ためしに、200年前のことを考える。

 200年前、1800頃。

 時代は江戸期、文化文政。幕末直前の、最後の華々しい時代。

 葛飾北斎が大活躍した時代だ。

 そう、北斎は伝説だ。

 彼は200年後もみなに覚えられている。

 そして、

 北斎の娘、お栄。

 彼女は結婚したけれど、出戻って北斎の絵の才能を継いで、北斎の死を看取るまで父親について絵を描いていた。

 北斎の死後、70歳を超えていたお栄は姿を消す。

 どこでどのように死んだのかはわからない。

 でも、お栄の存在は絵と北斎にまつわる伝説の中に残っている。

 でも、その墓は?

 それは誰にもわからない。

 

 私が思うに、墓は死者のためではなく生きている人間のためのものである気がする。

 自分がぐらつきそうになるとき、墓に行くのはそのためで、墓石というものは死者に残された人間が死者とつながるためのツールとして、あるのだと思う。

 であれば、そのツールはなにも墓石でなくても、いいのかもしれない。

 心の中にいる、と思えば、それは心の中にいるのだ。

 しかし、私はたとえそうだとしても、お墓がほしいのだ。

 母のお墓がほしい。

 心の中に居座ってもらうには母は口うるさいから、お墓があるところで静かに見守ってほしいのだ。

 それになにより、私はまだ石に話かける古い人間の最後の世代だと思うから。

 

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北斎の娘、お栄作と言われています。イラストレーションのようですねw)