NANA★LAND

ぐだぐだ日記としか、、、

7月16日(月)環境が世界をつくる(ルーマニア マンホールチルドレン)

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(今回は、このルーマニア。ファンタジーのような美しい国で起きた悲劇について)

 

チャウシェスクの子どもたち】、という言葉がある。

 東欧ルーマニアがまだ共産主義国だった頃、独裁者になり果てた政治家ニコラエ・チャウシャスクが奨励した多産政策によって生まれた子どもたちの総称だ。

 私はてっきり、旧共産圏がやっていた天才児教育を受けた子どもたちのことだと思っていた。

 たぶん、浦沢直樹のマンガの読み過ぎだろう。

 

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ルーマニアの場所 バルカンよりの、東欧です)

 

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(こっちが例の浦沢マンガ)

 

 この子どもたちの別名は、マンホールチルドレン

 何の保証もないまま、親がたくさんの子ども達を養いきれずに捨てた結果、行き場を無くした彼らは寒さをしのぐために、地下の温水が通るパイプの下にねぐらを求めることになった。

 独裁者チャウシェスクフランス革命さながらその妻とともに銃弾を百発も浴びて処刑されたのが、1989年、12月のこと。

 すでに、ブルガリアハンガリーポーランド東ドイツなど多数の東欧国家がソビエトの衛星国から脱出する中、ルーマニアは革命後も、新政府の中枢がチャウシェスクの旧側近で占められたまま、名ばかりの革命を終えた。

 

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ルーマニアの独裁者チャウシェスク ウィキ的有名な写真)

 

 

 25年という四半世紀に及ぶ、長い期間を計画経済、独裁者による国家経営と続けてきたルーマニアにとって、数々の民主化政策、大企業の国営から民営化、そして自由主義経済への移行は、端的に言って国家全体をカオス状態に巻き込んだ。

 革命後の数ヶ月は二度にわたる暴動が置き、国民の生活は疲弊した。そんな中、多産政策によって生まれた子どもたちは、捨てられ、町にあふれた孤児たちは文字通り、孤児院へと回収される。

 百人をたった数人体制で監督するというこの劣悪な施設では不足する栄養の代わりに、血液が子ども達に注射され、使い回しされた注射からエイズに感染する子どもたちが続出。虐待も日常茶飯事で、そうした環境から脱走した子どもたちの逃げ込んだ場所が、マンホールだった。

 マンホールだ。

 

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(こちらすごく有名な首都ブカレストのマンホール生活者の写真です)

(中央にいる方が首領の通称ブルース・リー

(ストリート・ファイトで勝ち抜いた百戦錬磨の方だそうです)

 

 

 もっともこの話は有名で、十年以上前に日本人のルポライター早坂隆氏が日本に紹介してから、テレビでも放映され、ルーマニアマンホールチルドレンは有名になった。

 ちょうど、十年ほど前、同じく民主化を果たしたモンゴルの首都ウランバートルでも有名になったこの言葉だが、私が当時モンゴルを訪れた時には、彼らのような存在は見られなかった。

 

 

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(2003年発刊の早坂氏の著 衝撃的内容です)

 

 とにかくだ。

 このルポを読んで、衝撃を受けるのは、こんな状態で生活をしている人間がヨーロッパの国にいるということだ。

 ルーマニアは別名、ヨーロッパのインドという呼ばれている。

 ルーマニアチャウシェスク政権によって、国内の民主化の基盤になるノウハウがことごとく阻害され、政権が倒された後も、実質的に政権が非共産主義政権に成り代わるのに、9年もかかった。

 共産主義という資本主義の激烈な競争原理、搾取の根元にも思えるイデオロギーに対抗して生まれたイデオロギーは、残念ながらこちらも十分にモンスターだった。

 私はあまりこのイデオロギーに対する勉強をしていないので、わからないことだらけなのだが、なんというか、共産主義という平等を標榜するシステムは、なぜか強烈な独裁者を排出する。

 ほんと、誰かに教えて欲しいのだが、共産主義は、なぜ独裁者を生み出すのだろう。

 共産主義というシステムは長期戦の計画経済になるがゆえに、担当者の異動がないからだろうか。そうすると、たぶん、三年ぐらいで汚職に走るのは間違いないというのは感覚でわかる。

 けれど、それだけではすまない何かがある。

 

 

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(引き続き有名なブカレストのマンホール生活者の写真)

(雰囲気があの映画とそっくりじゃないですか)

 

 

 

 

 

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(あの映画:わかった人は私の映画ブログも読んで下さっている方でしょう)

 

 

 

 何が問題かというと、本当に一度、大きなシステムが人々の行動と思考を支配してしまうと、それが崩壊したときに、人々が本来当然、いきるためにすべき思考と戦い方をすっかり忘れているということだ。

 そのせいで、生まれてきた子どもたちは、誰の助けもないまま、というか、大人たち自体も自分たちが生きていくだけで必死で、余裕などなく、何の罪もない子どもたち、たぶん、きちんとした教育を受ければしっかりした希望をもった大人になるにちがいない人間を、ゆがませ、不幸にさせてしまう。

 それは、本当に悲しいことだ。

 

 人は、生まれる場所、時期を選べない。けれど、だからこそ身を寄せ合うようにして、マンホールの底で心と体の痛みを忘れるためにシンナーを吸い続ける人間を生み出してしまう社会とはなんなのだろう、と思う。

 共産主義は二十一世紀の人類の壮大な実験だったと、よく言われる。

 

 ルーマニア民主化後、経済的大混乱のなか、「失業」を経験し、チャウシェスク時代を懐かしむ声もあがっていたという。

 資本主義は万能ではないし、むしろ、ますますその牙を向くような勢いで世界中の持てる者と持たざる者と差は広がっている。

 しかし、資本主義は、結局まだ、共産主義よりまし、だということになる。

 こんなざっくりしたいい方はよくないことはわかっているけれど、私が思うのは、人が思考し、自ら戦う姿勢を取り上げて、何かに服従させるようなシステムは、悪だということだ。

 それは、人を育む環境として最悪で、結果としてその環境が絶えたあとも、新環境に適応しにくい人間をつくりあげてしまう。

 それは、弱者を助ける余裕のない社会であり、弱い人間を差別することで、本質的に自分たちのおろかさに気がつかない罪だ。

 どんな環境でも希望があれば、人は生きていける。

 

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ルーマニアの東欧らしい田舎の風景。本当は美しい国です)

 

 

 でも、希望をもてるのは、人が人から愛を受ける余裕がある社会であり、努力をすれば、環境を乗り越えることのできるチャンスのある環境が整っているからだろう。

 そうした環境を作っていかなければ、生まれた子ども達は不幸になってしまうし、それは何より悲しいことじゃないだろうか。

 どんな環境に生まれても、努力で幸せになることができる社会をいつでも未来の子ども達に残していく義務が大人にはあると思う。

 そのためになにができるのか、それは社会のあり方を考えることのような気がする。完璧な社会などありえないけれど、できるだけチャンスのある環境をつくることだと私は思うのだ。

 

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(首都ブカレスト:いつかルーマニア、東欧の国々は周遊したいなあと思います)

7月16日(月)かっこつけてもしかたない

 

 

 お見合いを前提にしてデートを重ねている人がいるのだけれど、まったくもって憂鬱になり、こんなもんだと何度言い聞かせても心はダウナーなままな先週。

 結婚は契約。

 恋愛はエンタメ。

 このフレーズ。

いや、わかるよ。わかるけど……な私。

 

 ある意味真実を言っていると思うのだけれど、なんというか。ほんとしょぼんとしてしまう悲しい言葉のチョイス。

 どうしてそうなっちゃったのか。

 恋愛は本能

 結婚は理性

 ぐらい、胃が痛くなっちゃいませんか。

 

 

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(これ、コンシェルジュからいつも聞かれますけど、

 こんな疲れた発言さえ乗り越えられるぐらい、タフになってきました(笑)

 

 もう、なんというかもう

 結婚……する前から憂鬱なもの。

 

 これってなんなのだろう。

 

 問題は自分にあり、相手にある。

 でも、一番の問題は自分だと思う。

 自分に嘘をつくか、忍耐を続行するか。

 なぜ、結婚をするのか。

 ゼロを1にするためじゃないのか。

 それが、今の私の中で、来るべき未来のマイナス1をゼロにするだけを念頭に置いたプロジェクトになり果てている。

 はう。。

 

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(むふふふ、いやそもそもなぜ婚活するようなはめになっているのか

 よく考えたほうがいい。それでもしたいのなら、GO!

 したくないなら、根本から生き治せ!)

 

 そんな、はじめから自分が下方修正されるべき存在だと仮定して、他人と共存していく契約を結ぶなんて、そんなバカなことあるのだろうか。

 いや、言っていてめちゃめちゃ理性的だと思ったけれど、ぴんとこない。

 

 やっぱり、何度考えても腑に落ちない。

 感情では。

 

 結婚は誰もはっきりとは言わないけれど、人それぞれの理想や打算があって、それはそれでいい。

 でも、打算を越えて、何かパートナーになるべき人にきらきら光る希望を見いだせなければ、たぶん前には進めない。

 踏ん切りがつかない。

 いくら、結婚するという気持ちを固めたところで、違う。なんか、違う。

 という、疑念はますます確信に近づく。

 みんな、そういう思いで結婚をしているのだろうか。

 そうなのだろうか。

 などと、考えながら、私はあごに手を当てる。

 

 

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(私の脳内にいる12人のメンバーのうちリーダーのザカリ君のイメージ)

(彼は私の最大の味方ですが、同時にもっとも辛辣で冷たいやつ。。)

 

 

 既婚の女友達は、みな結婚前はひどく現実的でウッキウッキだったことはほぼなくて、覚悟を決めて死地に向かうようなたたずまいとは言えないまでもそれに近い風情であったし、それを思い出すと、結婚とはそういうものかと思えてくる。

 でも、だ。

 そんなこと、結局は人それぞれで、わからないことで、インタビューしてわかったところで、自分の参考になるとも限らない。

 だったら、一人瞑想でもして、、

 というのが、これまでの私の流れだった。

 でも、今回は違った。

 

 職場の同僚である女友達に、打ち明けてみることにしたのだ。

 結局、近所のフレンチ居酒屋で私はノンアルコールビールをあおりながら、女友達に、悩みをうちあけてみた。

 話すだけで、軽くなるというのは半分真理で半分が都市伝説だ。

 女友達は、「二番目に好きな人間と、イヤじゃないという理由で結婚した」と、端的に結婚のきっかけを説明してくれた。

 いわく「本当に好きな人間とはうまくいかないから」

 それは、確かにそうだった。

 惚れ込むと、女性は男に弱くなるし、女性に甘やかされた男性は見る影もなく戦闘力が低下する。そうなったら共倒れだ。

 女友達いわく、

「相手が何をしても、そんなに好きじゃないから、許せる」

 真理だ。

 まあ、ちょっとテンションのだだ下がりする真理だけれど、事実だ。

 そういうわけで、私は彼女からそういう話を聞いて、ほっとする反面、なんというか結局は彼女なりの人生観だなあと判断を下す羽目になる。

 私は、それでいいのか、と。

 で、その日の結論としては、おそらく、彼女のこの結婚観よりも、彼女のオーストラリア人の男友達で、世界放浪を続行中彼を、紹介したら、私と仲良くなれるだろうに、というスレッドを重視すればよかったのかもしれない。

 なんというか、私は結婚はもちろんしたいけれど、その前に人生の色々な側面を言葉で共有できるパートナーがほしいだけなのだ。

 それは男でも女でも関係なくて、そうするだけで今は十分な気がしてきた。

 可もなく不可もなくな異性を前に、私は未来を描くことさえできないし、というより、描いている未来像に結局、可もなく不可もなくな異性は審議の末、不適合となっただけなのだろう。

 そういうわけで、どこにいけばいいのやら、誰もいない真空地帯でひたすら右往左往しているのだった。

 とりあえず、二週間後にはインドの山奥にいます笑

 

 

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(ここ……)

 

 

 

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(ここ、、、おんなじ構図だな笑)

(でも、心から願えば地球の秘境ぐらいは行けますよ)

(ようは、本気かってことなんだよ!!)

(本気で、人生楽しくしたいかってことなんだよ!!!!!!(笑)

7月16日(月)人生の真空地帯

 

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(階層=レイヤー マズローの……以下略 上位概念に行けば行くほど、欲求のレベルが高くなるっていうまあ、ごくごく基本的な図ですな)

 

 世界にはレイヤーがある。

 なんてことを数年前から感じるようになる。

 レイヤー、つまり階層。

 それは、簡単に言えば人間界におけるエネルギー消費レベルとでもいうのか。簡単に言えば、所得の階層と言えばいいのかもしれない。

 

 

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(独身女性が妄想する社会ヒエラルキーらしい。。)

(おお~、なんかよくわからんけど。。笑)

 

 

 所得が高ければ、高いほど、消費活動も大規模なものになっていく。普通は。

 そういう所得の高い低いによって分けられた階層が、この世界にはある。 

 有名人と一般人の世界の違いにも言い換えることができる。

 昔はこの世界観の壁がもっとずっと不明瞭で、人々は基本的に自分の別の階層があることは知っていても、それは境界線の部分を観ることでしかなかった。

 でも、最近はその境界線のテリトリー、本来は階層外の住人が知りえないようなものまで、ネットで拡散されるようになった。

 そこにありつつ、手が届かない世界。

 そういうものを見るだけでなく、気軽にコメントを残すこともできる。

 けれど、できるのはそこまでだ。

 

 

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(やばい、すごいつまんない図を持ってきた(笑))

 

 

 

 

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(ん?)

 

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(はい、まとも)

 

 

 すぐそこにある世界は、実際はその世界を構築できる能力者だけが味わえるもので、その階層外の住人は、バーチャルでしか触れることはできない。

 しかし、本気でその階層を超えたいと思っているのなら、それは無理ではない。

 たぶん。

 

 今、その階層の超え方を探している。

 ここ数年、ずっと動けない状態が続いている。

なんというか、自分が今いる階層が自分にあってないのだ。

その上のステージにアクセスしたいと思っているのだが、どうしたらいいのかわからないでいる。

わからないので、ずっと悩み続けている。

 感じているのは違和感と焦燥感。

 こういう状態でいるのは、あんまりよくないと思う。

 ただ、抜け出せるアイデアが思い浮かばない。

 今、私がいる現実世界では、ほんとうに一人か二人しか、話の合う人間がいない。だから、次のステージに行くしかないのだけれど、どうやってアクセスしていけばいいのか、皆目見当がつかない。

 異業種交流会にでも行けばいいのだろうか。

 それとも、各種イベントに参加すればいいのか、ジムに通えばいいのか。英会話でもなればいいのか。

 自分が会いたい人は、いったいどこにいるのだろう。

 起業を考えるくらい、ビジネスと社会のニーズのことを考えている人間となれば、やっぱり異業種交流なのかな、と思うのだが、なんだかそれもぴんとこない。

 こんなことを考え出したのは、やっぱり婚活で出会う人間は、私にとって魅力的ではなく、どんなにがんばって考えたところで、無理だなと思うからだ。

 相対的にエネルギー値が低くて、なんというかいろんなことに興味がない男性が多い。

 私だって自分の好きなことを選択し続けてこの年になってきたわけで、同じような異性を鏡のように突きつけられているのはわかっている。

 わかっているけれど、やっぱりそれは状況がそうなだけで、価値観的には全く違う気がするのだ。

 もっと前向きで、好奇心があり、自分の可能性を追求し、社会に貢献することを考えている人と出会いたい。

 それは、女性も男性も関係なくて、まして結婚なんてあとのあとのあとでいい。

 結婚よりも、そうした人間と友人になるだけで、十分だと思う。

 思うけれど、いったいそういう人がどこにいるのかわからない。

 たぶん、アクセスの仕方と、アクセスをしてからどう動けばいいのか、イメージがわかないからだろうと思う。

 

 

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(エコとエゴ。。おお~、すばらしい。。笑)

 

 少しずつ、今のサラリーマン生活に別れを告げる中で、とにかくがむしゃらに好きで、熱中できることを発信しつづけるしかないのかな、と思う。

 なんだか、私の人生にはいつもこういう、誰ともアクセスできない真空の時期がある。

 その真空はきっと次のレイヤーへの準備期間だと思うけれど、不安でしかないのだった笑

 

 

 

 

 

6月24日(土)ジオストーム~近すぎるファンタジーとしてのディザスター映画~3/3

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(拾ってきたジェラルド・バトラーの画像なんですが、

この映画のどこにラブ要素があるのか、弟と婚約者のことなのか(笑))

 

 

 なんというか、もうこの前提がファンタジーなんですね。

 映画はフィクションなので、ファンタジーありきなのですが、テーマがテーマで、現実的にホットすぎて、距離感がとれない。

 地球温暖化に端を発する異常気象って、現在師進行形の大問題です。

 地球というインフラが人類とそれをとりまく野生動物にとって危機的な状態にある以上、これ以外に真剣に取り組む問題ってないんじゃね、って思えるくらいのシリアスなアジェンダだと思います。

 

 気分的には、人類存続の危機だと思うので、これ以外の連続殺人事件とか、AIの話とか、暗殺者の宿命とか、色々映画のテーマってありますが、時事的な問題としてこれ以外にない、というくらいホットでビッグなプロブレムだと思います。

 (なぜこんなにあつ苦しくなっちゃうかと言いますが、最近はすべてがこの地球温暖化を解結しないと、様々な社会システムが海の藻屑になるのではないかと思い、フィクションにもこの視点がないと、どうにもテーマ性にかけるというか、危機感にかけるような気がしちゃうのです)

 

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ウルグアイ40代大統領。元南米最強都市ゲリラツパマロス所属 ホセ・ムヒカ

(すごい、いい顔している。。すばらしい。。お仕えしたい。。)

(彼が言うには、温暖化問題はライフスタイルの問題、つまるところ、政治問題、とのことです)

 

 地球温暖化というか異常気象問題の本質は、実は政治的な問題で、解決方法はわかっています。

 異常気象の起こる原因も陰謀論を唱える人もいますが、高い確率で炭素社会であることでほぼ確定です。

 だから、炭素を削減する社会。つまり、再生可能エネルギーに舵取りをすればいいだけなのです。しかし、それができない。

 問題解決方法はわかっているのに、どの国もサスティナブル(持続可能)エネルギーに全面的にかじをきれないでいる。

 なぜなら、すごく損をすると思うから。

 だから、正直に言って、このまま地球の気候はどんどん悪くなることは目に見えている。

 その臨海点を越えてしまってからの物語が、この映画のスタート地点なのです

 こういう暗いスタートって、人類が核戦争を始めたとか、核戦争で荒廃した地球が私の故郷とか、でけっこうあるんですよね。

 でも、この映画の薄気味悪さは、そんな派手なドンパチやらずに、私たちが毎日を普通に暮らしてる先に確実に待ちかまえている未来という設定。これでほどリアルで、地味な未来観ってないと思います。

 さんざん言われているように、地球は100億人を養うには狭すぎますし、今いる60億だか70億だかの人類がすべてアメリカ人並の贅沢ができる見込みも確実にない。

 でも、私たちは生活水準を下げるどころか、上げることにしか興味がない。

 そんな人類を待ちかまえているのが、生存圏としての機能がぎりぎりの地球なわけです。

 そうなったとき、どうするか。

 すでにポイントオブノーリタン的な場所を越えてしまい、あとは対処療法的なジオ・エンジニアリングしかない。

 

 このジオ・エンジニアリング。

 地球の気候システムという人類がどう考えても太刀打ちできないような大きなシステムに向かって技術で対抗するわけですから、無事ですむはずがないのです。

 というか、そもそもこのジオ・エン(長いのでもう略します)が技術的に可能かどうかもわからない。

 よしんば可能だったとしても、壊れた地球を根本から直すことができずに、対処療法的に扱えば、逆にもっと恐ろしいことが起こるのではとも思えてくる。

 

 これはもちろん現実の話なのですが、このリアリティって実はすごく大事です。

 なぜなら、扱っている問題自体が私たちのこの現実と確実に地続きになっているから。

 

 なので、この映画は表層的には兄と弟の葛藤、娘と父親の葛藤、気象衛星の国際的所有権の争い、気象衛星の不具合の修正、その不具合の背後にある陰謀の謎解き、というエンタメ要素をなぞっていくけれど、この物語を背後で支えている構造は、

 

 ①人類は目の前の日常を繰り返し(短期的な欲望を選択し)、

  長期的な視野で欲望を抑制することができなかった故の地球の環境破壊・異常気象(前提)

 ②地球は生存圏の危機に瀕したけれど、もう後戻りはできないほど地球は破壊されているため、対処療法的にジオ・エンで乗り切るしかない(やっぱり科学技術は万能であり、それゆえ人類は短期的利益の追求をいまもってやめない)

 

 ③しかし、巨大な技術は常に兵器転用のおそれがあり、今回も私欲から衛星が平和 利用から兵器に早変わりした(というか、この後に及んで、自国の利益を考えてどうする)

 

  という、グロテスクな構造が透けてみえる。

 

 映画を見ている間、冒頭から感じる曰く名状しがたい不快感というのは、この③つが相乗効果をもたらす人類への不信と科学技術への過信(人は地球システム言い換えれば神というか宿命をも手名付けられる)と反省のなさであり、そんなことはおかまいなく、最後はヒーローの犠牲(実は犠牲でもない)一つで地球が一見救われるという現実的とはとても思えないハッピーエンドだ。

 とはいえ、この映画に涙してしまう理由は、この手のディザスター(災害)映画にありがちな、ラストは危機を乗り切った人類が日常に戻っていくシーンが感動的だからだ。

 黒々とした空がはれ上がり、巨大サイクロンも、津波も引いていったあとに残された、人々の笑顔。

 この日常を守るために、一人一人が生きている……!!などとうるっとどころか、号泣もしてしまう。

 けれど、何度も言うけれど、この映画は表層で繰り広げられるエンタメ要素の背後に人類が確実に乗り切れなかった炭素社会というグロテスクな構造がある。

 この物語が、もっとずっと21世紀の人類の世界からかけ離れたものであればよかったのに、それがあまりにも私たちの世界と陸続きで、その発想もよく似すぎていているからこそ、私の心は引き裂かれる。

 心は感動しているのに、深層心理は吐き気を催しているという感じだ。

 

 それはテクニックに裏打ちされたセックスのようなものかもしれないと、思う。

 気持ちがいい。

 泣くという生理現象。それは快感だ。

 けれど、それは徹底的にテクニカルな作用であって泣かされているに過ぎない。

 そうして「単純に」映画に泣かされることで、自分が普通だと思える。

 うまいセックスをそのままいいと思える。

 けれど、体感的にいいことが心理的にいいとは限らない。

 

 異常気象を引き起こす温暖化問題。

 これは、私たちが住んでいる地球、インフラ危機の話である、このインフラがどうにかなってしまえば、家族の和解がどうだとか、セックスがどうだとか、家を買うとか、旅行とか、連続殺人事件がどうだとか、なにも言えなくなる。

 

 生存の危機。

 

 それは、核戦争のようなスペクタクルの果てになど望むべくもなく、ただ私たちが日常を送り続けた果てにあるものなのだ。

 

 

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(重力という問題がある以上、私たちは空へ逃げることはできないのかもしれません)

(というか、人類のスペックを超えなければ、地球を出ることは難しいのかも)

 

 というわけで、まあそんなことを思いながらこの映画には複雑な気持ちを抱いてしまったわけです。

 今後人類がどうなるのか、私は割と悲観的に考えています。

 でもそれは、私たち人類・ホモサピエンスの時代の終焉であり、その先に私たちを越える次世代が現れるのではないかという期待があったりします。

 それは、また別の機会でお話しようと思います。

 今回はこれで

6月24日(土)ジオストーム~ジオ・エンジニアリングとは~2/3

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(物語に登場する、国際気候ステーション。ここがHQとなって、地球を網羅する衛星を管理します)

 

 

 ジオ・エンジニアリングというまだ一般的になっていない概念の話をする前に、この映画の舞台をちょっとだけ説明します。

 

 舞台は地球。

 

 2019年以降だいたい、現在から20年後以内の超近未来です。未来という名もおこがましいくらいの、数年後と言ってもいい地球では、異常気象が続いています。

 映画の冒頭で主人公の娘である少女が、地球を襲う天災を「見慣れた映像」とともに列挙していきます。

 干ばつ、津波、熱波、寒波、北極の氷の氷塊、そして2019年、都市の水没。

 

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 こうした異常気象による大災害をくい止めるために、人類は国境を越えて手をとりあった(つーか、もっと前にやっとけ、とか言いたくなるのを飲み込んで)

 

 

 人類が編み出した技術、それこそ気候を制御し、管理する衛星ダッチ・ボーイ。

 地球の成層圏成層圏は旅客機が飛行する上空11キロメートル以上の場所)にくまなく配置された衛星が、発達しすぎた積乱雲を破壊し、冷熱光線を照射して、熱波寒波を防ぐというもの。

 この衛星の開発者が、彼女の父親、ジェイク・ローソンなのだ。

 

 

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 (科学者でもエンジニアでもない雰囲気ばんばんですけど。。。)

 

 そういうわけで、異常気象を制御することに成功したというところから物語はスタートします。

 もうね、私はここの時点で「おいおい、眉唾にもほどがあるぜよ。気象をコントロールできるわけないだろうが。地球なめんたらいかんぜよ」などと脳内で罵詈雑言が聞こえてくるわけです。

 で、ここでやっと冒頭ででたジオ・エンジニアリングという概念の登場です。

 

 ジオ・エンジニアリング。

 

 オゾンホールの研究者であり、ノベール化学賞受賞のパウル・ヨーゼフ・クルッツェンが2006年に提唱・

 ポップに「気候を人工的に変えよう」というエッセイで言い出したことがことの発端。地球の気候を【技術的】に解決することを目的とする。

 代表的なものとして、全球工学、気候制御技術があり、宇宙空間に巨大な日除けをつくる、成層圏(地上11キロメートル以上)にエアロゾルを散布する、人口的に雨を降らせるなど、基本的には対処療法。(と、これは映画の話ではなく現実のお話です)

 

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 (こういうものを成層圏において、太陽光を地上に届かないようにするって、、

 可能かよ。。)

 

 

 ジオ・エンジニアリングは概念としてはSF的には百年も前から登場していましたが、そのうさんくささから、眉唾ものとして長い間、議論の的にはなりませんでした。ところが、事ここに極まり、いつまでたっても二酸化炭素削減目標に対し、国際的な足並みが全くそろわない以上、現実の世界でもジオ・エンジニアリングという概念がついに一般社会にも受け入れられるようになりました。

 

 ハリウッドで採用ということ自体が一般化の指標ではないかと思いますが、そういうわけでこの「ジオ・ストーム」では、気候を局地的に操作・管理するための衛星が地球全体を何百と覆っている状態です。

 お察しのとおり、成層圏に配置した衛星が巨大雨雲を破壊して、洪水をくい止めるなんてことは、そのまま「兵器転用」できるため、この映画でもそんな流れになり、主人公達が四苦八苦してそれを阻止しようとします。

 

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(これ、完全に兵器だよね 絵的に。。。)

6月24日(土)ジオストーム~ごくごく近い地球の慣れの果てとしての未来~1/3

 ごくごく近い地球の慣れの果てとしての未来

 

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 (映画【ジオ・ストーム】の主役気象衛星じゃなくて、気候制御衛星ダッチボーイ)

(ただの衛星に見えますが、地球の気象を自由自在にいい感じにしてくれます)

 

 

 ここに不思議な映画がある。

 エンドロールが流れた時に爽快感と満足感に体全体どころか半径三メートルが包まれる。見て、よかったと思う。

しかし、そんな幸福オーラに包まれている感覚は、エンドロールを観た日を頂点として、日を追うごとに跡形もなく消え去っていく。

 それどころか、あれほど幸せに感じていた感情の波が怒りにさえ変わる。

 そうして悶々とする日々を過ごすのだが、結局、それはなんというか映画のせいではなく、自分のごちゃごちゃしたモノの見方のせいなのではないかと思ったりする。

 そうした映画にはたまにしかお目にかからないけれど、その典型がこちら「ジオ・ストームだ。

 

 

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(なんか、既視感ばりばりですよね。。高層ビルの合間に津波。巨大氷塊)

(あたりです。。あなたが思ったまんまの映画です(笑))

 

 ちょっと長いのですが、今回も映画レビューの体裁をとらず、思い切りざっくばらんな感じで感想をつづっていきたいと思います。

 

 

 

 

【パッケージングされた感情起動装置としての災害映画】

 

 

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(主人公役はジェラルド・バトラー。。300の人です。というかスリーハンドレッドでしか見ていませんが、マッチョな体形そのままでエンジニアというか科学者です)

 

 みなさん、もうおつきあい長いというか「地下言語」のブログをちょいちょい見ていただいている読者であれば、この映画を見て、ナナエが何をいいたいのか想像つくと思います。まず、この映画、けっこう泣きました

 

 

 いや、なんていうか後半、ずっと号泣です。ほんと、弱いんですよ笑

 家族の和解っていうテーマにというかフローに、というかテンプレに。

 簡単に映画のストーリーを言うと、地球を救うために一人の男が宇宙に旅立ち、長いこと仲違いをしていた弟と和解し、地球(人類)を救い、無事に地球へ帰還してかわいい娘を抱きしめるというものです。

 

 大泣きです(笑)

 

 そういうわけで、アルマゲドン的な展開まんまではあるのですが、アルマゲほど映像的にスペクタクルではなく、

 ちょいちょいデンジャラスな映像美というか残念映像がありつつ、

 私的には家族の和解と人類の危機脱出の前にはそれこそ、そんなことはどうでもええ、となるというような「卑怯」な作りになっています。

 

 

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(うわ、暑苦しい(笑)アルマゲ。。こっちもねえ、すげえ号泣しちゃう(笑))

 

 

 と、ここまでお読みになってわかったかと思いますが、この映画はですね、なんというか「泣かされたけど、ただじゃ泣かされねえ」という私の深層心理がかいまみられる感想となっています。

 

 今更なんですが、映画の目的が観客の「感情」を揺さぶることを至上命令としている以上、この映画は私をたっぷり「泣かせて」くれたのです。

 それが、ハリウッド的パッケージングされた完璧な「泣き」のフローだったとしてもいいんです。

 「泣かせる」感情喚起テクニックがハリウッドで蓄積されている以上、それ自体はすばらしいことですし、それにみごとにはまる私は「ぎりぎりふつうの人間」でいられるような気がして、はっきり言うと、こういう単純な家族の和解で泣ける自分にほっとしているわけです。

 

 しかし、なんというか、この映画、一言でいうと、いかがわしいのです。

 

 いかがわしいを通り越して、グロテスクでさえあります。

 こののいかがわしさというのは映画の冒頭からエンドロールまでずっと胸やけをおこさせるようなものなのですが、パッケージングされたお涙頂戴の展開に顔はぐしゃぐしゃになっているのです。

 そんなテクニカルなことをやってのける奴はいったいどんな奴なのか。

 その真犯人を今日は語ってみたいと思います。

 その名をジオ・エンジニアリングと言います。

 

6月16日(土)怪談についてあれこれ

 

 

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(今回のオチです笑 気になる方はラストまで飛ばし読んでスクロール推奨)

 

 

 月末にずっとファンだった怪談師の主催するイベントに参加するため、持ちネタ(といえるのか)の怪談の草稿をつくっている。

 しかし、やり始めるとどうにも気持ちがノラない。

 ノラないどころか、下降する。

 ディプレッションである。

 

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(鬱と書いて、ウツ。画数多すぎてウツる。。。)

 

 

 なんというか、イベント参加自体はノリではじめたのだが、よくよく考えてみると、怪談というのはあまり真摯に向き合うたぐいのモノではないと思いはじめた。

 はっきり言うと、私にとって怪談はエンタメでなければならず、「怖すぎて笑える」か「怖すぎて、悲しい」のどちらかの感情が壮大に引き起こされないかぎり、その大半は唾棄すべきほど退屈でオチも説明もないタワゴトにすぎない。

 そうした怪談に自前のネタ、それは実体験であったり、知り合いの持ちネタであったりするのだが、をエンタメに消化させようとすると、かなりの労力を消費する。

 それで、その労力自体は問題ではないのだけれど、怪談・ホラーというジャンルが求める暗く陰鬱な人間の業・悲しみ・絶望というものが、どうにもやりきれない。

 そもそも作家を志すものが人間の負の感情や性質を正視する気力もないのなら、そんなの死んじまえということになるのだが、なんというか「逃げたく」なる衝動を抑えられない。

 だったら、そんな怪談イベントに参加するなよ、という結論になるのだが、これこそ因果というしかない。

 

 

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(私はやっぱり、動機のあるテロリストが好きです。

 まあ、テロリストとして、復讐が動機、しかも痴話げんかが原因っていうのは

 スタートしては許されても、う~ん、って感じなんですけど、

 それも含めて水戸黄門的な? わかりやすくていいよねwって感じです)

 

 

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(小朝師匠存在がホラーというかホラーですけど、天才すぎてホラーという

のが極端に感じられて崇拝してしまうのがこちら、ボタン灯篭。

 役柄の演じ分けが天才的すぎて、いいですよ性格とか人格があれでも、、

 そういう人がいたっていいじゃないですか、、的な師匠のすばらしき話芸)

 

 

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(存在がホラーだって言ってるじゃないか。。)

 

 私は、笑えるほど怖い話が好きなのだ。

 荒唐無稽だけれど、死してなお人間がエネルギー体となって「承認」を求める姿に惹かれてしまうのだ。

 彼ら元人間が繰り広げる痛ましく、悲しい物語は、現人間である私の心を揺さぶる。

 揺さぶるのだが、一方で退屈でもある。

 その退屈さは、幽霊物語があまりにテンプレ化してしまい、むしろ肉体を無くした人間の悪行(現人間を驚かすとか、呪うとか、痛めつけるとか)というところだけをとるのでれば、ネットの中の集合知のようなもののほうが、ウキウキするというか。

 

 いや、いいわけはよそう。

 

 やはり、私が怪談を掘り下げられない理由は、覚悟がないからだ。

 怪談・ホラーは幽霊の話にとどまらず、人間の業が人間の善を打ち負かす話であることが多い。その負の側面と向き合うだけの愛と書いてラブと読む的なエネルギーが私の中で足りてないのだ。

 だから、人形にとりつかれた男の話やら、音声ファイルから流れてきた真言で裏人格が登場してしまった人間の話や、生き霊にとりつかれて除霊をしたら、二人の死者がでたというような暗く陰惨な話に耐えられないのかもしれない。

 私としては、怖すぎて楽しい怪談をこれまで提供してくれたその怪談師様に少しでも恩返しができれば十分というその程度の心づもりでいるのだが、どうにも怪談というジャンルはとうの昔に私の頭上を飛去っていってしまったような気配がある。

 それとも、私が怪談というジャンルを追い越してしまったのか。

 

 いずれにせよ、私のゴーストが囁くのだ。なんか、違うと。